90 / 230
84.情動
祖父が、危篤。
健朗の頭は真っ白になっていた。だが藤枝が落ち着かせてくれた。
その上財布を渡してくれて、瞬間、涙が出そうになったが、なんとか堪え、礼だけ言って寮を飛び出した。
本当はもっと何か伝えるべきだったのかも知れない。
だが、焦りと嫌な予感が押し寄せ、なにも考えられず、ひたすら走った。
今、祖父の味方は自分だけ。ここの警察病院へ転院してからは特にそうだ。県警時代の知り合いも近所の人もおらず、新たな環境で簡単に友人を増やせるような祖父ではない。
それは父にも言ったのだが。
昨年夏の検査で内臓に不調が見つかり、食生活の改善などで快方に向かうだろうと言われたが、それは祖父一人で暮らす実家では望めないことだった。
そこで入院を打診した地元の病院は、祖父を入院させることに消極的だったらしい。命に関わるような状態でもないし、ココに健朗が、広島には父がいるのだから、身内の近くで入院した方が良いでしょう、と。
祖父の為人を知っていた為、面倒な患者を避けたいのだろうと父は言った。祖父はかつて県警でそれなりの地位にいて、厳しいことで知られていた。誰かの助言に────たとえ医師であっても────静かに従う人では無い。
ゆえにここへ入院となった。健朗は何度か見舞いに行ったが
『なにしに来た。みっともない試合をした反省があるなら稽古に打ち込め。勉強も手を抜いてはイカン』
そう言う祖父が、かなり苛立っているようだとは思っていた。気になってはいたのだ。
しかし安藤に勝てなかったことで痛感している自分の不甲斐なさを、改めて抉られるのは辛かった。ゆえに足が遠のきがちだった。
「待てよ!」
「全速力かよ!」
声に立ち止まると、なぜか知らんが多賀と伊勢が追ってきて、まとわりつかれた。
デカくてむさ苦しく、良くしゃべるのが二人。常なら歓迎出来ないのだが、今回に限っては少し気が紛れた。
「いいって!」
「奢ってやるから!」
と押し切られ、タクシーに乗った。病院名を運転手へ告げると
「おまえ実家って長野じゃなかったか」
「なんでおまえのじいさん、こっちにいんだよ」
うるさく聞いてくるので、問われるまま経緯を説明した。
昨年夏、検査入院したのだが、結果が思わしくなく、入院するなら見舞いに行ける所が良いとなって、ここに転院させたことなど、説明しているうちに落ち着いてきて、二人が騒がしくしてくれて助かったように思っていた。考えても詮無いことを、つい考え込んでしまう己を自覚してはいるのだ。
気づいたら病院に到着していた。
タクシーを降りて、病院の正面入り口を入ったとき、ロビーにいる女性を見て、健朗は立ち止まった。
「どうした?」
「おじいさんはどこだよ」
二人から声をかけられ、ただ首を振るしかできない。
なぜここにと、まず思い、何年ぶりだ? 人違いでは? と考える。
────いや、間違いない。
声も、笑うとき指をくちに当てるくせも、その女性が母だと健朗に教え、思わず声をかけていた。
「お母さん」
母は笑顔で振り返ったが、健朗を見た次の瞬間、表情はこわばり目を見開いて「ヒッ」と悲鳴のような声を上げた。そのまま後ずさる母に健朗が一歩近づくと、逃れるようにまた後ずさり、また一歩踏み出すと、母はその場で蹲るように身を縮めてから、チラッと健朗を窺って、また顔を伏せた。その目は、明らかに怯えていた。
脳内に保美の、妹の声が響いた気がした。
『あんた、あのクソボケじじいに似てきちゃってる』
母が家を出て行ったのは健朗が中三のときで、それ以来会っていなかった。
その頃から比べると、健朗の身長は二十センチ以上伸び、顔も厳つくなった。七星に合格し、春期の休みを使って会いに行ったとき、保美は『なんでそんなに育ってるのよ!』と騒ぎ、『じじいに似てきてる~!』と笑っていたのだが、おそらく保美は危惧を抱いていたのだろう。
昨年夏、ケンブリッジに家族が集まるという話になったとき、保美からメールが来たのだ。
母と保美はマメに連絡を取っているらしいのだが、まだ祖父母への怖れを訴えているのだと、そのメールは告げていた。
『籍戻すのも怖いって言ってるし、まだ時間かかりそう。ジジイがそうとうトラウマになってるみたい。だから今回は来ないで』
保美らしくハッキリとした言葉が続いた。
『言いたくないけど、あんたあのクソボケジジイに似てきちゃってる。だから今顔合わせたらヤバいかも。そうなったらお互い気まずいしイイこと無いでしょ。OKになったら、ちゃんと段取りするから、今んとこは耐えて』
一瞬のフラッシュバックから戻っても、母は蹲って背を丸め、健朗の視線から逃れようとするかのように、床をいざっていた。
母と談笑していたひとは、健朗に敵意の強い目を向け「なんですかあなた」責めるような声を出した。
「こいつはじいさんが危篤でかけつけたんだ」
「なんだってんだよ、そっちこそ」
多賀と伊勢が言い返すと、決まり悪そうにくちを閉じ、母に「大丈夫だよ、安心して」と声をかける。
「おい、行こうぜ」
「なんだあれ、感じ悪いな」
「つか病室教えろよ」
半ば呆然と告げると、そのまま病室へ連行され、そこで二人は姿を消した。
まだ父は到着していなかった。
病室では複数のスタッフが管や機械に繋がれた祖父を囲んでいて、顔を見ることは出来ず、祖父は病院のトイレで倒れていて、発見したときは既に危険な状態だったと説明を受ける。
健朗と父の携帯へ連絡を取ったが健朗の携帯はつながらなかった。そのときはおそらく稽古中だったのだろう。稽古中、携帯はロッカーにいれっぱなしだ。父は広島から飛んで来る途上で寮に連絡を入れたのだろう。
状態の説明もされたが頭に入ってこない。出来ることなどなく、ただ突っ立って見ていたが、しばらくして祖父は持ち直したようだった。
「丹生田さん、お孫さんが来てくれてますよ。良かったですね」
そう声をかけられた祖父は目を開き、健朗を見つけると唸るような声を漏らした。どうやら本当に助かったようだとホッとしたが、祖父はすぐに目を閉じ、そのまま眠ってしまった。
スタッフは機器などをチェックして「なにかあったら呼んで下さいね」と言い残して病室を去り、健朗はただひとり、ベッドの横に座って祖父を見つめていた。
痩せて、すっかり白髪になった。
幼い頃、見上げるように大きかった祖父は、いつも厳めしい顔つきで滅多に笑わなかったし、声を出すこともあまり無かった。おそらく保美は笑顔を見たことが無いだろう。そして母も。
もっとも可愛がられていた健朗ですら、祖父の笑顔は数えるほどしか見たことが無いのだ。剣道を始めたと伝えたとき、満足そうに少し笑ったのが初めて見た笑顔だったように思う。
夏休みや冬休みに長野へ行くと、容赦なく剣道の稽古をつけてくれた。安藤のことで相談したときも言葉少なに背中を押してくれた。健朗が泣き言を言うと『情けないことを言うな。丹生田の長男が』と叱咤され、その後でこっそり蕎麦屋や喫茶店などに連れて行ってくれた。
『ばあさんには言うな。保美にもな。あいつらはうるさい』
誰にも内緒で自分だけ特別扱いされるのは、単純に嬉しかった。
中学から長野の学校へ通おうと考えたのも、祖父がいたからだ。もっと強く、安藤を倒せるようになりたかった。その為に転校が続く生活は良くないとアドバイスを受けていることを伝えると、父も祖父も、そして母も、賛成してくれたのだ。
だがそれが、あのような事態を引き起こすなど、想像もしていなかった。
祖母が亡くなって後、祖父は体調を崩した。やがて母が異常を来し、保美と祖父がぶつかり合うようになって、祖父の、母や保美への言動は、健朗も気に病んだ。
しかし健朗には、稀だが笑顔を見せるのだ。『丹生田家の長男が細かいことを気にするな』と言う祖父が、一人気を張っているように思え、なんとかしたかった。
だが、どうしたら良いか分からなかった。
祖父の顔を見ながら、とりとめなく脳を去来するあれこれに、ぼうっとしていると父が到着した。
祖父の状態は聞いたというので、母に会ったことを伝える。
「そうか」
父はそれだけを言って、健朗に「後は俺が見る。もう帰って良いぞ」と背を叩いた。驚かなかったのを見ると、母がこの病院にいることは知っていたのだろう。
が、何も言わない。健朗もそれを不自然には思わない。
言葉が足りない。
よくそう言われるが、丹生田家の男はみなそうだ。それで良いのだと思っていた。だが
賢風寮に来て、意志を伝えられない己にやるせなさを覚え、自分からも意志を伝えなければと考えるようになった。寮の仲間、剣道部の仲間、学部にも知己が増え、健朗は言葉を費やすようになった。笑顔も前より自然になったと思う。
それでも、母は怯えた。
健朗はまた、どうしたら良いか分からなくなった。
さまざまなことを考えながら電車に乗り、寮への道をたどる道中、自分は何をしたら良いのか。ここにいる自分に意味はあるのか考えた。しかしいくら考えても、どうするべきなのか分からなかった。
考えは堂々巡りを続け、脳が過熱している様な感覚を覚え、気がついたら
──────藤枝がいた。
いつの間にか目の前にいて、心配そうに声をかけてきた。
気づいたら抱きしめていた。
優しい手が背を叩き、髪を撫でていた。どうしたと聞かれて、母がいたと、怯えたのだと、それだけをなんとか伝えた。それだけで健朗は救われた気がした。このままもっと救われたい。そんな感情が湧き上がって、それは情動に直結し、自分は欲情していた。
この腕の中の身体を、今すぐ──────
「おい! なにしてんだ!」
「大丈夫か」
声がかかり、健朗はハッとして藤枝から離れた。
離れて、それでも藤枝から目が離せなかった。心配そうに、眉を寄せて、藤枝は自分を見ていた。
さきほどまで自分を支配していたもの。
それが急激に引いて、一気に頭が冷えた気がした。次いで噴き上がった自分への怒りで、脳が焼き切れそうだった。
こんなときなのに、
藤枝は大切な友人だというのに、
自分は、いったい、何を……?
当然、こんな状態で藤枝と二人きりの部屋に行くなど出来るわけがなかった。
寮の玄関をくぐる間、
「おじいさん、大丈夫だって?」
「良かったな」
さまざまな声がかかり、肩や背や頭を叩かれる。頷いたり頭を下げたりしていたら
「腹減ったろ、メシ食うか」
という声もかかった。夕食時にさしかかり、食堂は開いているのを確認したが、なぜか空腹を感じないので首を振る。では風呂に入る、という選択肢に眉を寄せる。それには部屋に戻らなければならない。
迷って、健朗は娯楽室に入った。
以前、ここには主のように標がいたのだが、今はあまりいない。一人部屋となったので、自室のテレビを見ているのだろう。あるいは勉強が忙しいのかも知れない、と考えたが、あの標が勉学に関して困ることなどないように思え、健朗は首を振る。
数人がたむろっているのみで、娯楽室は静かだった。テレビ前のソファに腰を落とす。
メシを食いに行っているのだろう、テレビも付いていない。
ちょうど良い、ここで少し考えをまとめ冷静になるのだ。そう考えた健朗の視界に、困ったような顔をしている藤枝が入ってきた。
健朗を見て、目を見開くと「あっ!」いつも通りに大声を上げ、あたふたと周囲を見回して「そうだ! 総括の仕事が!」と叫んで、すぐ出ていった。それを見送り、健朗は眉を寄せて考える。
もしかしたら。
そうだ、もしかしたら、藤枝は先ほどの行動で、健朗の卑しむべき行動の意味を悟ったのではないか。だから避けるように出て行ったのではないか。
そう考えが進むと、後悔で胸が押し潰されるように痛む。
母の怯えた顔が、衰えた祖父の顔が、疲れ切った父の顔が、そして保美の顔が、交互に浮かび、また母の顔が浮かび、そして、去って行った藤枝の顔が浮かんだ。
なにをしている。自分は何をしている。
なにもしていない、自分はなにもしていない、まだ、なにも
なぜなにもしていないのだ。自分に出来ることはないか考えたのか。
考えた。脳が焼き切れそうになるほど考えた。しかしこの現状だ。考えが足りないのではないか。
──────疲れた。
色々考えすぎて、脳が過熱しているように感じ、健朗は眉を寄せて風呂に入ろうと考えた。藤枝は総括の仕事と言っていた。おそらく総括部屋にいるのだろう。
万が一、339にいたとしても、風呂道具だけ取ってすぐに戻れば良い。顔を見ないようにすれば大丈夫かも知れない。とにかく少し落ち着かねば。
そう考え、健朗は腰を上げて部屋へ戻った。
だが
339のドアを開き、入った部屋の、健朗のベッドの上で
藤枝が、真っ赤な顔をして、こちらを見ていた。
ともだちにシェアしよう!