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86.煩悩

 寮の部屋には、基本的に鍵が無い。  過去に自前で鍵をつけた奴もいたそうだけど、有無を言わせず撤去したと聞いている。どうしても一人の空間が欲しいならよそへ行け、ということなんだろうな、なんて姉崎淳哉は思う。  例外は執行部の役員室のみ。あそこは内緒の相談に使うからね。ココで話すことは他に漏れないよって安心感持たせるために鍵がかかる。  そしてここ、副会長室は例外に入らない。  でもまあ、今まで生活したどの寮でも施錠できない部屋が大半だったから、そういうものなのかも。小さい頃いた寮では『貴重品は寮の先生に預けなさい』なんて言われたし、一人部屋のときは備え付けの金庫があったし。でも使ったことなかったな。必要ないからさ。  もしかしたらなんか持ってった奴がいたかも知れないけど、どうでも良いいし、むしろ持ってっていいよ、なんていちいち言うより楽で良いかもってくらいだし。  それに一人の空間なんて、僕には必要ない。  前の前の寮で、僕の一人部屋は仲間の溜まり場になってた。だからわりと常に誰かいたけど、気になったことなんて無かった。僕って集中すると周囲をシャットダウンしちゃうからさ。  いつからか忘れたけど、自動的にそうなっちゃう。別に排他主義とかじゃ無く、無意識の単なるくせだけど、便利ではある。どこで誰といようと、マイオフィスにいるのと同じなんだから。  けど周りが慣れてくると、簡単に集中は破られる。残念なことに。  たとえばイリノイ大学の学生が(あらわ)した非常に興味深い論文を読んでいた僕の頭を、いきなり殴りつける奴がいたりする。 「いたっ」  少しイラッとしながら振り返ると、こぶしを振り上げて二発目を叩き込もうとしている健朗がいたので、ガードを上げながら文句を言う。 「いきなりはやめてよ。それに殴るんじゃ無くて、優しく揺するとかにしてくれない?」 「そんな必要がどこにある」  けど健朗が珍しい顔になってたので、イラッとしたことなんてすぐ忘れた。  怒ってるような顔なんだけど、眉尻は下がってて泣きそうにも見える。少し目のあたりが赤くなってるあたり、相当ななにかが起こったんじゃないかと期待値が上がり、思わず笑みになってしまった。すると健朗はふいっと目を逸らして、低く唸るような声と共にこぶしを下ろし、ため息をついた。 「なに、どうしたの健朗」  問いかけの言葉と同時、ドアの向こうから『……うわあぁぁぁぁっ!』聞き慣れた雄叫びがドップラー効果付きで聞こえてきた。  藤枝だ。  そして目の前の健朗の微妙な顔。これは絶対面白いことになってる。  もう耐えきれなくてクスクス笑ってしまいつつ、とりあえずあっちはほっとくしかないな、と諦める。藤枝は僕に対して警戒強すぎるからね。  けど遠ざかっていく藤枝の雄叫びがお気に召さなかったらしい健朗は、ムッとくちをへの字に引き結び、眉間に深い縦皺を刻みこんだ。 「藤枝となんかあった? もしかしてキスとかしちゃった?」 「……バカを言うな」 「なんだ、つまらない」  ニッコリ言うと、健朗はガックリと頭を落とし、ため息をつき片手で顔を覆いながら「まずいことになった」と呟いて背を向け、尻をデスクに乗せた。おお、腰の位置が高いね。 「ああ~、じゃあ、なんかやりそうな勢い出ちゃったんだ」 「……………………」  深いため息が返る。 「もうやっちゃえばいいじゃない。グッズ提供するし、使えるホテルも教えるよ? こないだも言ったじゃない、手取り足取り教えてあげるって。どこをどうすればどうなるか、体感してみると良いんじゃないかな。ねえ、健朗?」  誘惑の色をたっぷり乗せて、特別サービスの流し目送ってあげたのに、顔をゴシゴシこすって目も開けない。 「遠慮すると言っただろう」  先日、たまたま廊下で会った健朗が、「避けられているような気がする」なんてシュンとしてたから、せっかく同室なんだしエッチなことしてみたら? と焚きつけてみたのだが、それが当の藤枝に目撃され、それ以来、僕はすごく警戒されてる。  それまで意識しまくりで健朗と顔合わせないようにしていたらしい藤枝は、ちょっと弄ってみたら分かりやすく警戒心丸出しになって、僕から健朗をガードしようって感じで自分の部屋にいるようになったのだ。  ホント笑っちゃうよね。そんななら初めから部屋にいれば良いのに。  せっかく二人部屋にしたんだから、もっと積極的になりなよ、と言いたいところだけど、藤枝の場合、僕の作為で同室になったなんて知ったら面倒なことになりそうだから言わない。 「だいたいさあ、なにがしたいわけ? 健朗が同室になりたいって言ったから僕も協力したんじゃない。それってつまり、二人っきりだとエッチなことも出来るって考えたんじゃないの」 「そうではない」 「違うの? じゃあなんで同室になりたがったりしたの」 「………………」  まただんまりだ。ちょっとイラッとしてきた。 「だって藤枝見てるとムラムラするんでしょ? なにガマンしてるの」 「簡単に言うな」 「だって簡単な話だよ? 押し倒して押さえつけてキスでもしちゃえば、藤枝なんて絶対すぐメロメロで抵抗もないって。抵抗してきたとしてもチカラだって体格だって健朗の方が勝ってるんだからさ、触り放題ツッコみ放題だよ~」 「おい」  顔擦ってた手を止め、睨み付けてきた。「なに、そんな顔して」応援してあげてるのになあ。 「ヤりたいんでしょ?」  正直になんなよ。 「あちこち触ってなめたり突っ込んだりしたいんでしょ? 色っぽい顔とか声とか見たいんじゃないの?」 「……藤枝を(おとし)めるようなことを言うな」  いちおう真面目に相談乗ってる(てい)だったけど、もう耐えられなくてクククッと笑いが漏れる。 「エッチするのが貶め? そんな馬鹿な!」  また眉間の皺が深くなった健朗見ながら、なんとか押さえ込んだけど、肩は揺れる。  笑いを抑えるにはもっと笑っちゃえば良い。僕はニッコリ笑う。 「セックスを愛の行為だ、とか言うじゃない?」  僕はそう思わないけどね。でも健朗は好きなんじゃ無いかなあ、とか計算して言い、今度は意図的に笑みを深めた。 「邪魔するような真似ができるか」  なのに予想外な言葉が返った。 「は? 邪魔?」 「勉強も、寮の仕事も。藤枝は頑張っている」 「まあね~、それは認めるけど、僕もかなり頑張ってるよ? さっき勉強の邪魔されたけどね。しかもいきなり殴られて。こんなに相談のってやってる、いわば恩人に向かってさあ、まったく酷い仕打ちだと思わない?」 「なにが恩人だ」  吐き捨てる様に言いつつ、鋭い眼光を向けてきた健朗に、自然に笑みが深まった。 「恩人じゃない。誰にも言えないんでしょ? 大親友の藤枝にもさ? それを秘密厳守で聞いてあげてアドバイスまで」  次の瞬間、伸びた手に襟首を掴まれた。  おっと失敗。ちょっと気が緩んでたなあ。健朗って動き鋭いから、たまにつかまっちゃうんだよね。  襟首引き寄せられるまま、両手を肩の高さに挙げ、降参のポーズしてみながらニッコリ笑いかけたけど、健朗はキツく眉を寄せ、鋭い眼光を間近で向けてくる。 「おまえが」  低く唸るような声。うわあ、マジで怒ってる。ホント面白い。 「奥底にあった(よこしま)を育てたんだろうが」 「育てたかも知れないけど、産みだしてはいないよ~」  健朗は睨んだ目のままくちを真一文字に閉じた。 「もともと健朗の中にあったものでしょ? 気がついて良かったじゃない」  降参のポーズのまま言ってから、片手を健朗の首に伸ばし、指先で首筋を撫で上げる。鋭く睨んだまま、ピクッと肩が揺れた。噛みしめる奥歯にグッと力が入り、顎と首が緊張する。  健朗って首とか耳とか弱そうなんだよなあ。乳首とか弄ってみたいなあ。ホントそそる身体してるんだよなあ。腹筋キレイに割れてるし背筋もキレイだし全部なめてみたいなあ。大臀筋揉み下してアナルに指突っ込んで前立腺刺激したらどんな声出すかなあ。この厳つい顔が快感に崩れるところ、見てみたいなあ。  なんて思ってたら、襟首から手が離れ、こっちを睨んだまま、健朗は二歩後ずさった。 「……前にも言った。俺たちに触るな」  目力が弱まって怯えたような感じが出てる。う~ん、失敗。つい顔に出ちゃったかな。睨んでた方が好みなんだけど。  僕はニッコリ首傾げて「善処するよ」と言った。あくまで努力目標ってことで。だって嘘は言いたくないからね。出来そうにないことは断言出来ないよ。  目を逸らした健朗は小さく首を振り、また深い溜息を吐いた。   * 「もう気が済んだでしょう。出てってくれないかな。忙しいんだ」  なんて橋田に追い出された拓海が339に戻ると、丹生田がベッドに座ってた。  あのあと整えたらしく、ベッドはいつも通りきちんとキレイになっている。  とにかく丹生田の顔見れなくて、下向いたり窓見たりしながら 「……あの、あのさ丹生田」  橋田が言った通り、言い訳してみる。 「さっきはゴメン! その俺、うっかり丹生田のベッドで、つか間違って、その、やっちゃって、その、ゴメン! 気持ち悪いだろ? 新しいシーツ持ってくるよ。そんで取り替えるからさ」  言ってチラッと目を向けると、黙ってこっち見てた丹生田が、ため息つきながら目を伏せ「ああ」低い声を出した。 「そうしてもらうとありがたい」 「うん。すぐ持ってくるし!」  なんとかニカッと笑い返し、部屋を飛び出した。すぐに替えのリネンを持って戻り、取り替えようとすると「いい」と遮られ、丹生田は自分で全部取り替えて、きちんと整えてた。 (やっぱ俺が触ると気持ち悪いンかな)  ひっそり落ち込みつつ、丹生田が風呂に行ったのを見送って、勉強なんて出来そうにない、と思い。  自分のベッドに潜り込んでふて寝した。

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