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125.イイ笑顔※

 伝えるべき言葉を、スマホで検索しつつ探しまくった健朗は『I love you』の訳文の中に『月がきれいですね』という語句を見つけた。あくまで理系の健朗は、論文なら書けるが文学的な素養が壊滅的に無く、それゆえに知らなかった。だが文系で健朗をしのぐ藤枝なら当然知っているだろう。なにしろネット検索で見つかる程度に知られた訳文なのだから。 (これなら言えそうだ)  飲み続けたビールで、若干酔ってもいたかも知れない。とにかく健朗は、藁にも縋る思いで、この言葉を言い続けた。そしてそれは通じたようだった。  藤枝は笑って言ってくれたのだ。 「だな。……イイな」  これは言葉を受け止めてくれたと解釈して間違いないだろう。  そして気づいた。  そもそも藤枝はそれ以前に、言うまでも無く健朗の気持ちに気づいていたのだろう、ということに。  遅ればせながらこれが愛しいという事だと自覚した、愚鈍な健朗などよりずっと早く。浅ましいと、そんな目で見るなと、何度自分に言い聞かせてもやめられなかった視線にも、当然気づいていたのだろう。姉崎ですら気づいたのだから、一番近くにいて視線を受けていた藤枝が気づかないわけがない。  気づいていて、その上で受け止めてくれた。 『俺だって、まあその、……やりてえし』  自分だけでは無い。藤枝も触れることを、セックスを欲していた。あり得ないはずの夢想が現実化したのだ。冷静でいられずとも責められるものではないはずだ。  見つめ続けていた唇が動き 「にゅう……だ……」  声が聞こえた。視線はいつも通りだったが、声はかすれ、荒い呼吸に途切れていた。これ以上消耗させてはいけない、その一心で、必死に呼吸を整え、歯を食いしばって腰を引いた。 「……う……」  かすれた声が耳を打つと、脳が焼き切れそうに熱を持ち、また突き込みそうになる。イカンと自分を叱咤しつつずるりと抜き出し、コンドームの処理をした。なにか作業でもしていないと、また埋め込んでしまいそうだった。 「大丈夫か」  なんとか冷静に聞こえるように言ったつもりだったが、自分の声も欲望にかすれたようになっていて、新たに吹き出す汗を腕で拭いつつ、健朗は唇を噛んだ。 (まったく、俺という奴は……)  しかし藤枝は、すぅぅ、はぁぁ、と深呼吸をして、「だいじょぶ」と言い、ニカッと笑った。また心臓を打ち抜かれつつ、それでも藤枝が笑ったことで心底ホッとした健朗は無自覚に微笑む。  藤枝は笑っているが、目尻にはじんわりと涙がたまっていた。それにも心臓を打ち抜かれつつ、気づくと伸びた手がその頬を包み、親指で涙の滲んだ目尻を拭っていた。 「泣くな」  なんとかそれだけ言った。とんでもないことを言ってしまいそうに思い、くちを閉じる。  すると藤枝は目を細め「くくっ」と笑い声を漏らして「やっべ」と呟いて「うぅ~」と唸り、健朗を見上げて、テヘッと笑う。  声は微かだが、あくまで陽気な藤枝らしさに、無自覚なまま笑みが深まる。  だが肉体的には、藤枝の笑みや声や表情や身体の動きや……そんないちいちに股間を直撃され、意志の力を総動員する必要を感じて慌てていた。  にもかかわらず、触れた手を離したくなくて……しかしコレは危険だと、名残惜しく手を引いた。これ以上藤枝を疲れさせてはならない。  分かっているのに、いますぐ蹂躙したいという獣欲も滾って、一瞬毎にボルテージを上げている。そんな自分を嫌悪しているのに、藤枝を見下ろして笑んでしまっている自分が、不可解でならない。  嬉しさを内包した奇妙な混乱に満たされていると、藤枝は呆けたような表情になり、呟いた。 「おまえ、キレイだなあ」  ─────きれいなのは藤枝だ。  身も心も、こんなに美しいと思える人間は、他にいない。潤んだ瞳で、ぼうっとしたようなこの顔も、信じがたいほど美しい。あまりに美しくて、優しく抱きしめたい気持ちと、思うまま獣欲を満たしたい欲望とがない交ぜになる。  胸にこみ上げる感情は、身体を離しても薄れなかった。  いや、さらにこみ上がって健朗の胸の内を暖かく満たし続けている。動悸が全く落ち着かず、心臓が奇妙な甘い痛みに締め付けられる。  混乱。そして歓喜。自分で自分の感情を抑えられない。 (これが、愛しいということなのだろう、おそらく)  そんな理解が、ようやく愚鈍な脳に落ち着いて、なにかを伝えようと唇が開く。しかし感情を表現する術すら知らない重いくちは、なにも言葉を発しないまま閉じてしまう。  相変わらず愚鈍な自分だが、今まで、いつも藤枝が察して受け入れてくれた。  藤枝は想像もしていなかった嬉しい言葉を、何度も何度もくれた。それが口先だけでは無いと、美しい瞳がいつも教えてくれた。  自分を信じることは難しい。しかし真っ直ぐ向けられた藤枝の言葉は信じられた。  今、自分が少しでも変わったのだとしたら、それは全て藤枝のおかげだと、健朗は断言出来た。  それでもこれ以上藤枝を疲れさせてはならないと、冷静な警鐘は脳の片隅で鳴り続けている。  歯を食いしばり精神力の大部分を使用して自制したのに、それでも触っていたいという無意識が、気づくと背に腕を回していた。汗ばんだ肌に、髪をかき上げる仕草に、また獣欲がまた燃えたぎりそうになり、誤魔化すように助け起こそうとしつつ、愚鈍なくちはようやく「風呂へ」とだけ告げた。 「……だな。なんかデロデロつうか」  そう言って藤枝は、ヘヘッと笑った。  また脳が焼き切れそうになり、イカンと必死に自分を縛めつつ、両腕で姫抱きにして持ち上げる。 「うえっ」  驚いたような声を出したが、暴れてはいない。顔を見ないようにして風呂へ運ぶ。 「え、いいよ行けるよ」 「黙れ」  ここまで言うまいと抑えていた言葉が出てしまったのは、運ぶ途中でまた脳が焼き切れてはマズイと、それしか考えられなかったからだ。  藤枝の声や笑顔の一つ一つが、健朗の自制心を破壊しようと間断無く攻撃してくる。正直、触れている体温や匂いだけで制限いっぱいになっている。今これ以上声を聞いたら、コンドームもつけずに、そこら辺の床で突っ込んでしまいそうだった。  歯を食いしばりつつ浴室へ運び、藤枝の裸体を湯の中に沈めた。 「ふぁ……うぅ」  気の抜けたような息と音の中間のような、藤枝が湯に浸かると必ず漏らすそれに、健朗は無自覚な微笑みを浮かべつつ、目は性懲りも無く裸体を見つめてしまっていた。  白い肌、過剰で無い筋肉、伸びやかな手足、ほの赤く胸を彩る二つの飾り、股間のものまで、全て美しい。  するとバシャッと顔を洗った藤枝が、健朗を見上げてニカッと笑った。 「いいな」  また胸が奇妙に騒ぎ、股間に血が集まり初めて、慌てて洗い場に座った。 「……なにがだ」  なんとか問うと、またバシャッと音がして、藤枝は言った。 「おまえ、イイ笑顔だ」  またも心臓を打ち抜かれる。  今度はさっきまでの比では無いほどの衝撃だった。なぜなら自分の笑顔が、  ─────褒められたのだ。  一年の最初の時期、うまく笑えない自分に絶望したことがあった。だがいつの間にか、少しは笑えるようになっていたと、褒められるような笑顔が出来ていると、藤枝は言ったのだ。  それは健朗にとって、あまりにも─────想定外過ぎて、なにも言えなかった。  いや、意味の無い咆哮が喉からほとばしり出そうで、それを抑えるために奥歯を噛みしめ、全身にチカラを込めて必死にならざるを得なかった。  そうでもしないと抑えきれないほど、嬉しい言葉だった。 『藤枝とつるんでっと表情筋、鍛えさるんじゃね』  などと言ったのは誰だっただろう。  藤枝が浴室から出た後、水シャワーを浴びてなんとか自分を鎮めた。  ベッドに戻ると、まだ明かりを落としていないのに藤枝は眠っていた。いつもは明るいと眠れないはずなので、いかに疲れていたかを表していると判断した健朗は深く反省しつつ、性懲りも無く寝顔を見つめ続け、結局一睡も出来なかった。

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