133 / 230

127.自信

「…………」  無垢な子供の瞳にまっすぐ見つめられ、健朗は全身を緊張させていた。 (また泣かれてしまう)  高校に入ったあたりからどんどんゴツくなっていた。  最初はファミレスだった。落としたおもちゃを渡してやろうとした子供に泣かれたのだ。  道ばたでぶつかってきた女の子が転んでワンワン泣いたとき、助け起こそうと手を伸ばしたら母親が子供をかばうようにして去って行くのを見送りつつ、まったく動けなかった。  図書館で『見ちゃダメ』などと言いつつ、こわばった顔の母親が子供の手を引いて去って行ったこともある。  そういうのが突然来るとけっこう傷つくので、そもそも子供が多いところに行かないようにしていたが、どうしても出会ってしまうこともある。ゆえに健朗は子供を見ると緊張し、事前に準備をするようになっている。  つまりショックに耐えるために奥歯を噛みしめ、自分に言い聞かせるのだ。 (泣く。怖がって泣く。気にするな。平常心を保て)  この子は、食事中こっちを見ても泣かなかった。それが嬉しくて、健朗は精一杯優しい励ましを言ったつもりだった。だがやはり、この子も泣くのだろう。母が怯えたこの見てくれは、子供にも恐怖心を抱かせるのだ。  内心の怯えを読ませぬこわばった顔になりつつ固まっていた健朗は、しかし 「ケンスジはナカナカ?」  まっすぐな目のまま子供に問われ、混乱した。 「良かったなあケンタ。さっきの上手だったってお兄さん言ってるぞ」  父親が言うと、少年は不思議そうに「そうなの?」と聞いている。  固まったままの健朗に、藤枝がニカッと笑顔を向け「ばっか、ケンタまだ五歳だぞ」こぶしで肩を打った。 「ちっちゃい子にも分かるように、やさしい言葉使ってやれよ」  そういうものか、と思い、「ああ……」戸惑いを隠さず、それでも必死に考えた健朗は、もう一度子供の目を見つめ、言った。 「だいぶうまくやれていた」 「ほんとう?」  まっすぐな子供の目は、いつの間にか涙が乾いていた。白目が少し青みがかった、嘘の無いキレイな目だ。くちもとは少し開いたままだが、眉のあたりにも涙の気配は無い。「ああ」くっきりと頷いて言葉を繋ぐ。 「たくさん練習をして力をつけろ。それで、もっと強くなる」 「つよくなる?」  この子は泣かない。  それに励まされ、健朗はしっかりと頷いた。くちもとが少し緩んでいたが、健朗はそれを自覚していない。 「けれど、頑張って、たくさん練習しなければならない」  子供はじっと健朗を見つめたまま、確かめるように言った。 「がんばって、たくさんれんしゅう、で、つよくなる?」 「……おそらく」  また頷いてそう言った。父親が子供の頭を撫でる。 「良かったなあ、強くなれるって。いっぱい練習しような」 「うん!」  父親に顔を向け、少年はニコニコだ。 「………………」  泣かなかった。  この子は泣かなかった。固まったまま突っ立つ健朗に、パッと顔を向けた少年は、身体をねじるようにして両腕を目一杯伸ばした。 「こら、おとなしく」  慌てて抑えようとする父親の声など聞こえないようで、「やー!」子供は身を反らせ「んん~っ」と唸って父の腕から逃れようと暴れ出す。 「ケン、あっ」  とうとう父親の腕から逃れた少年は、突進して片足にぶつかってきた。少年の全力を受け止めても、少し足を開いた健朗は微動だにしない。  子供の両腕は健朗の左股にしがみつくように巻き付き、その腕のチカラは緩まる予兆も無い。二倍近い身長差がある二人の姿は、まるで大木(たいぼく)にじゃれつくリスのような有様だったが、そのイメージと現実には、決定的な違いがあった。  大木なら身も心も動じないだろう。だが健朗は、────身体は不動、くちは真一文字で子供を見下ろしていたが、内心は混乱の極みにあったのだ。  こめかみや脇、背中に、じわりと汗が浮く。呼吸が困難なように思いゴクリとつばを飲み込む。なにが起ころうとしているのか、予測不能すぎて固まっていた。  しかし子供はパッと顔を上げ、健朗を見上げて、にぱあ、と笑った。 「ケンタつよくなる!」  キラキラ光る瞳。白い歯をみせた、満面の笑み。  泣くどころでは無い。笑顔だ。  子供の、笑顔が、自分に、……向けられている─────  健朗はグッとこぶしを握りしめ、少年剣士に言った。 「……ああ。……強くなれ」  無自覚に笑いかけながら。 「こら、ケンタ」  おろおろ声で引きはがそうとするお父さんに、丹生田が「……大丈夫です」とか答えてる。  つまりケンタが丹生田をよじ登ろうとしてて、お父さんはやめさせようとしてるんだけど「やだーっ!」とか、ケンタは頑張るわけで、そんでなにげに丹生田もイヤじゃ無いらしい。よじ登るのを助けるみたいに、手とか腕とかつかみやすい位置に置いてじっとしてる。  そんでくちの片方が上がった引きつった笑顔で、つまりちょい照れてるけど嬉しそうだ。きっとケンタに懐かれたからだな。  バスが来るまで片時も離れようとしねーし丹生田が「大丈夫です」とか言い続けるんで、お父さんも諦めて見守る体勢になった。  丹生田は子供に慣れてねーから、撫でンのも抱いて引きはがすのもおっかなびっくりな感じで、それがめちゃ可愛くて、ついつい笑っちまう。  バスに乗ってからも、ケンタは丹生田の膝によじ登ったまま、お父さんのトコに戻んない。 「あのね、あのね、せなか、のばしなさいっていうの。のばすのにね、まがってるって」 「……やってみろ」  丹生田が言うと、ケンタは立って、おもちゃの刀で素振りする。 「少し左に曲がっている」  丹生田が片膝ついて腰支え「動いてみろ」とか言うと、ケンタは素直に言う通りにして、「こう?」とか、めちゃ真剣。 「少し良くなった」  なんつって丹生田もマジ顔で言ってて。それはイイんだけど、ヒマになっちまったから、 「ケンタ剣道大好きなんすね」 「ええ……本当に夢中で」  同じくヒマなお父さんと話してた。  つっても動いてるバスの中でそんなことやってるからケンタはコケそうになるわけで、すると丹生田は「踏ん張りが足りない」なんて叱ったりしてて、ケンタは「はいっ!」とか、超イイ返事してたりして、なんか即席の師弟状態。 「親の言うことも、あんな風に素直に聞いてくれると良いんですけどねえ」  とか、嘆いてるお父さんに、「そうっすね~」とか笑って適当返すしかない。だって子育ての悩みとか言われてもなあ。  けど嬉しかった。丹生田が、めちゃ楽しそうだったから。   * 「やっと来たか!」  寮に戻ると仙波が飛んできて、いきなり捕まった。 「とにかく来い!」  リュックも下ろしてないのに腕つかまれて引っ張られる。  つか、移動の電車で既にSOSは受けてて『もうちょいで到着』なんて返してたから、なにげに覚悟はあったけど、そんでもやっぱコレは焦る。 「えっ!? ちょ、待てコラっ!」  一応抵抗したけど 「観念して下さいよ藤枝さん」  なんてうさんくさく笑う田口とか、 「お願いします! 俺らじゃ無理なんで!」  なんて必死な池町とかまで一緒になって背中押すし、なんなんだよっ! 「てかココまでかよっ!? おい、ちょま、丹生田ぁ~」  半泣きで玄関に手を伸ばしたけど、「頑張れ」とだけ言った丹生田は突っ立ったまま。  そんでなし崩しに娯楽室へ連れ込まれたのだ。  玄関でぽつねんと騒々しい一団を見送った健朗は、苦笑しつつふっと息を吐いて階段に足を向けた。  一段一段上りながら、思考は旅行へ出かける前へと飛んでいく。  これから数日、藤枝とキャンプを楽しむのだと、そんな想いで一杯になりつつ、忙しそうな藤枝に負担をかけないように考え、健朗の持ちうる限りの伝手を使って準備をした。楽しくなるだろうという期待、がっかりされないだろうかという不安、さまざまな感情が渦巻いていた。  階段を三階まで上りきり、無自覚に満足げなため息が漏れる。  ……楽しかった。  期待に満ちて電車とバスを乗り継いでいた時も、突然の雨に不安な顔をした藤枝を落ち着かせねばと必死になったときも、老婦人や野上はるひとの出会いも、二人で山を歩き、釣りをしたことも、バーベキューも、……どれもこれも楽しかった。  そして。  蔑むべき獣欲を知られてしまったと、絶望に落ちそうだったとき、受け入れてくれた藤枝。  ─────いままで、どうしても認められなかった、愚鈍で卑小な自分。  しかし藤枝は、ことあるごとにひとつひとつ、認める言葉をくれた。そしてこの旅の中で、全てを受け入れてくれた。身も心も、全てを。  309のドア前で、健朗は一人、苦笑を深めた。  前回ここに立ったのは、たった五日ほど前のことでしかない。  なのに、あのときと少し違う自分がここにいた。  健朗は、ほんの僅かだが、自分に自信が持てるように思え、以前は感じたことの無い力が湧き上がるような感覚を覚えている。この変化は、一体なんなのだろう。 「あ、健朗じゃない。おかえり~」  だがそこに、欠片も変わらないものが声をかけてきた。 「なに、スッキリした顔しちゃって」  副会長室から出てきた男は、メガネの奥の目を細め、愉快そうな笑みでスタスタと歩み寄ってくると、「あ~、そうか。分かった」と笑みを深めながら健朗の肩に手をかけ、身を寄せてくる。 「やっちゃったんだ。そうでしょ?」  間近で楽しそうにクスクス笑い、姉崎は囁いた。 「ねえ、どうだった? 藤枝って初めてだったんでしょ」  低く誘うような声音。  今まで健朗は、こんな風に囁かれて、ぽろぽろ心情を吐き出してしまっていた。  けして本人に伝えることなど叶わないと、いや伝えてはいけないと、欲望に満ちた目で藤枝を見ることすら罪深いと、そう考えていた健朗にとって、姉崎だけが唯一、それらを語れる相手だったのだ。  しかし、今は違う。  健朗は肩に掛かっている手を払い、ふっと笑んで姉崎を見返すと、くるりと背を向ける。 「なに、教えてよ。藤枝ちゃんと感じてた? どんな声出したの。ていうか教えたこと、ちゃんとできた?」 「さあな」  それだけを言い、309のドアを開いて振り返る。  そこにポカンと目を見開いた男のきれいな顔を見つけ、健朗は思わず笑みを深めてしまいつつ、部屋に入ってドアを閉じた。  《8.二人きりの旅行 完》

ともだちにシェアしよう!