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131.お誘い

 その日、いつも通り朝練に行った丹生田健朗は、帰りにATMの近くで待ち構え、手数料を取られなくなる時間になると同時に金を下ろした。それを財布にしまい、全力疾走で寮へと向かう間、口元が緩んでいるのだが、無自覚である。  彼は今、非常に張り切っているのだった。  キャンプから戻って以降、健朗は叶う限り、忙しそうな藤枝のそばにいた。  未熟で愚鈍ゆえに人の倍以上努力しなければなにごとも成し得ない自分とは違い、優秀な藤枝なら多忙とは言えおそらく大丈夫なのだろうと思いつつも、キャンプへ行く前に色々あったと聞いていたので、少し心配で……などと理由をつけてはいたが、実のところ、自覚無しに芽生えていた『そばにいたい』という本能が命じるまま行動していただけだ。  藤枝はさまざまな声を発する。  元気な大声、語りかける静かな声、泣き言を喚く声、半分寝ているようなぼやけた声。どれも健朗の耳に心地よく響いて、実行こそしなかったが、これは自分のものだと宣言したいような心持ちになった。  藤枝はさまざまな表情をする。  笑顔だけではなく、真剣な顔も、怒った顔も、苛立ちを押さえようとしている表情も、どれも見飽きない。それどころか時々医学的ではない痛みに胸を突かれたりする。心臓も異常で、突然鷲掴みにされたようになったり、異常な鼓動を示したり、どんな現象かと密かに悩んでいたりもする。  そんな風に藤枝を見つめ続けていた健朗だが、風呂では今まで盗み見ていた藤枝の身体を見ることが出来なくなっていた。  ことあるごとに『これは自分のものだ』と思ってしまう現状で刺激的なものなど見たら、これまでと違ってすぐに(たが)が外れてしまうだろうと予測出来たからであり、周囲の目がある寮の風呂場で(たぎ)ってしまうのはマズイと思ったからでもある。そうでなくとも唇や頬や、それ以外のあらゆるところに触れたくて堪らなくなっているし、頻繁に抱きしめようと伸びてしまう腕を必死に抑えているのだから、危険は避けるべきである。  これらは全て、以前の交際では起こらなかった心理の動きであったが、そこに疑問を抱くような心理的余裕はなかった。つまり単に少しでも長く見ていたかった、というだけのことであり、キャンプで資金を使い果たしていたため、それ以外のことが出来なかった、というに過ぎない。  つまり、まったく自覚は無いまま、健朗は浮かれていたのだ。  しばらくして藤枝の多忙が収束すると、共に過ごす時間が増え、日々を非常な満足感と共に送りつつ、少し冷静になった健朗の思考はそれまでとは別方向に進んでいった。  こうして順調(?)に交際がスタート(?)したのであるから、デートなどしたり、記念品などを贈ったりするべきでは無いか。寮内のあちこちで、この夏休みに彼女ができたと浮かれて話している連中を見て、そんなことを考え始めていたのだ。  藤枝が忙しくしているときに色々と調べてはいた。誰彼構わず情報収集もした。  だが資金不足はいかんともしがたく、健朗はジリジリとこの日、剣道で遠征した際の費用が振り込まれる今日を待ち構えていた。  どこへ行けば藤枝は楽しんでくれるだろうか、なにを贈れば喜んでくれるのか、考えまくって脳が焼き切れそうになりつつ、健朗にできうる限りの手を使って情報を集めた。ことの重大さに(かんが)み、健朗はあの姉崎にすら頭を下げた。嬉しそうに笑う姉崎に、交換条件として若干を語ることを余儀なくされてしまい、さらに偉そうに情報を提供されたのだが。  健朗は笑顔を黙然と睨みつつ、致し方ないと自分に言い訳をした。  それは我ながら度しがたい欲望によるものだった。なぜならあれから二週間以上が経過し、性的欲求が限界に達しようとしていたのだ。  奇しくもこの日、藤枝の講義は3限のみである。申し訳ないがそれは休んでもらうことになる。けれど致し方ない。我慢の限界が卑近に迫っているのだ。藤枝が怒ったなら、甘んじて受け止め謝罪するしかない。そう心に決め、予定を練り上げた。  地図を睨み、移動経路と移動時間を算出、経費の計算も済ませている。  資金も手にした今、脳内を去来するもろもろには沈黙を命じ、万全の準備を整えた、という自負と共に、健朗は339のドアを蹴り開ける勢いで部屋に飛び込み、ぽかんと見返す藤枝に笑いかけた。 「藤枝。出かけるぞ」   *  洗面を済ませ部屋に戻って、ある資料に修正を加えて見やすくする作業をしてた。  午前中は講義のない日で、そういうとき朝メシは朝練から帰った丹生田と一緒に行くんで、それまでヒマだったんだ。  なんで先日サークルで1年生に質問され、 「そんくらいのことは分かってねーと話になんねえよ」  と自分で調べるよう指示したの思い出して、そんだけだとわけ分かんねえまんまになりがちなんで、後で渡してやる資料つかリストを作ってたのだ。  マーケティング研究会は、相変わらず『もっともドSなサークル』の称号を返上しないまま活動を続けている。  毎年1年生が入ってくると、どこから聞いて良いのか分からなくなって混乱するのが続出するのだが、それは基本的な理解がないと、やってることが意味不明だからである。  とはいえ先輩は簡単に教えてやったりしない。そんなヒマのある奴はいないし、自助努力をしない奴はついて来れないのが『マーケティング研究会』なのだ。教えて貰おう、なんて受け身な奴はいずれ続かなくなるのが見えてるから、安易に教えたりはしないのだ。  が、親切な先輩が皆無なわけではない。  かつて1年生だった頃、一人の先輩がコソッと渡してくれたリスト。どこにどんな資料があるか、学内だけでなく、色んな図書館やウェブサイト等まで網羅してある一覧。それもらって、かなり助かった記憶がある。  なんで質問してきた1年に渡してやろうと思いついて、当時貰ったファイルを探し出し 「懐かしいなあ」  なんて目を通してたら、少し変わっている部分もあると気づいたんで、そこんトコ手を入れ、ついでに見やすくしちまおうってんで、その作業をしているのだ。  というわけでPCに向かってたんだけど、いきなり勢いよくドアが開いて、ビクゥと目を向けたら、珍しくハアハア息を乱してる丹生田が立ってて、なんだか嬉しそうに言った。 「藤枝。出かけるぞ」  ポカンとくち開いたまま、「……うん、いいけど」とか、なんとか返す。 「どこに行くんだよ」 「任せろ」  なにを? と思いつつ、なぜか自信に満ちてるっぽい笑顔を見返して、まあいいか、とコクコク頷く。なんにせよ、丹生田が楽しそうだし、どうせヒマなんだしイイじゃんそれで。 「おっけ。ンじゃまず食堂行こうぜ。メシ食ってから……」 「いや」  丹生田は目を細め、「用意をしろ」とだけ、低く言った。 「え。だってメシ……」 「大丈夫だ」  キャンプで山歩きしてたときみたいな、自信満々風味な丹生田は、やっぱなんだか嬉しそうだった。相変わらず言葉は少ないけど、丹生田がこう言うときは大丈夫なんだ、つうのは、あのキャンプで学んだことだ。  だから慌てて服を着替え、珍しくも待ちきれない様子で待ってた丹生田と寮を出たのだった。 「つか、どこ行くんだよ」  黙したままずんずん進む丹生田に並んで進みつつ声をかけると、一重の鋭い目が細まり、くちを開こうとして「…………」僅かな逡巡の後それは閉じられた。 「おい」 「まずはメシだ」  低く言った丹生田の視線が向けられ、その顔が優しい笑みを浮かべていたのでドキッとしてしまい、言葉は(よど)む。 「う、うん」  すると丹生田は笑みを深め、「大丈夫だ」と言った。  うわーなんだろコレ。めちゃカッコイイじゃん。  なんてポーッとしてしまいつつ聞いた。 「なんだよ、なんか考えてんのか」 「ああ」  しっかり頷いて前を向いた横顔を見つめながら、まあいっかと思考を放棄する。  そうだよ、ゼンゼンいいじゃん。 「そっか」  なんつってニカッと笑う。  だって丹生田とお出かけなんて久しぶりなんだし、部屋にいるより気まずくねえし、問題ないどころかイイ感じなんじゃね? 「なに考えてんだよ~。言えよ丹生田、珍しく企んでる顔しやがって」  ニヤニヤしながら言ったら、丹生田はまた笑んだ目線を寄越した。 「楽しみにしていろ」  一気に楽しい気分になり、「腹減ったぁ~」と叫んだのだった。

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