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幕間 健朗は悩む

 父には家事能力が欠けている。  料理も掃除も洗濯も、まったくやらない。そもそもやる気が無い。  広島にいた6年間、単身者用の官舎にいたらしい父は、当初ハウスキーパーを頼んでいた。だが突発的に休みが無くなることが重なり、キャンセルを繰り返した結果、断られてしまった。  そこでいっそ泊まり込んだ方が楽だと署に寝袋を持ち込み、ソファで寝起きして殆ど官舎に帰らなくなった。 『頼むから帰って休んで下さい』  部下たちは懇願したが、帰っても掃除だのメシだの面倒だと帰らない。ついに部下のうちひとりがついて来て家事をしてくれるようになった、と健朗は聞いたが、おそらくそれは人身御供だろう。厳しい上司が泊まり込んでいる職場など、誰でも嫌がる。  その状態を知った母が、わざわざ広島まで出向いたのだという。 『まったく、お父さんは一人じゃなにも出来ないんだから』  などと怒りながら世話したのだと語った父は、『母さんの言う通りだ』と当たり前のように頷いていたが、そんなのは威張ることでない。我が父ながら、恥を知って欲しい。  呆れつつ健朗は少し嬉しくもなった。父母が元通りに暮らすのも、近いように感じたのだ。そこに自分が加わるのは、まだ少し先になるだろうが。  夏に怒鳴りまくって以降、保美はうるさいくらい連絡を取ってくるようになった。無視すると『またひとりで煮詰まってるんでしょ!』と怒り出すので、健朗からも連絡を取るようにしている。  そして一月末。  父の官舎内にて、このところ毎度おなじみとなりつつある、短い言葉の応酬があった。 「いい加減、うんと言え」 「言えん」  父は健朗ほど長身では無いもののガッチリしていて、やはり強面である。  少し眉を寄せた二人が低い声で応酬する様子は、端からはケンカでもしている様にも見えるが、これは通常営業である。丹生田家の男は基本、最低限の言葉で意思の疎通を図るのだ。 「なぜ言えん」 「結論が出ていない」 「そうか」 「そうだ」  黙々と手を動かしながら、会話もこれで終わりだろうと考えていた健朗の耳に「強情な」と低い声が届いた。今日はまだ終わっていなかったようだ。  夏に戻った際。  父の官舎が、あまりにも生活感の無い空間であったことに、保美がキレた。  調理道具は愚か、洗濯機も無い部屋には、掃除機どころか掃除用具すら、ひとつも無かったのである。 『なんてことなの! なんにもやる気無いよねパパ! 私でも掃除と洗濯をする意志くらいあるわ!』  母が戻るまで、あと何年かかるか分からない。戻らないかも知れない。どちらにしても 『パパには意識改革してもらわないとね。男尊女卑とかありえない、誰かがやってくれるなんて甘えてんじゃ無いって叩き込まなきゃ』  というのが保美の主張である。つまり父の意識を根本的に変えなければならないというのだが、そんなことは健朗に出来ることでは無い。  そもそもいくら男女同権と言っても、保美が家事をしない言い訳にはならないと思う。ともかく、父の意識改革は保美にまかせることにして、健朗は自分の出来ることをしている。  合い鍵は渡されているが、官舎(ここ)に来るのは父がいるときだ。不在中に掃除したとして、父が気づくとは、まして感謝するなどとは、微塵も思えないからである。  ゆえに目の前で掃除だの洗濯だのをして、衣類は畳んでしまえ、食ったら片付けろ、などと言いつつ手伝わせる。つまりコレくらいは自分でやれと家事の指導をしているのだ。  そして父は、ことあるごとに同居しろと言ってくる。  こっちに異動してきてからずっとそう言っていたが、寮の保守副部長であること、責任を途中で放棄出来ないと告げると黙った。  しかし卒業を目前としたこの時期、さらに熱心に、というかしぶとくなっている。 「卒業後は、ここで同居をするべきだ」  しかし断っている。理由のひとつは、家事をやらせようという思惑が容易に推測出来ることだ。 「なぜ嫌がる」 「ここは職場から遠すぎる」  しかし別の理由を示している。根拠が確立していない感情論で説得出来る父では無い。 「朝なら送ってやる」 「要らん。俺は友人と同居する」  卒業後、藤枝と同居する。健朗の中では既定の路線だった。ゆえに父と同居など、肯んじるわけにはいかない。当たり前にそう考えていた。しかし…… 「同意を得られていないのだろうが。そろそろ諦めてここに来い」  そうなのだ。それが実現しない可能性が出てきたのである。  藤枝も当然、同じく考えていると思い、それに微塵も疑いを持っていなかった。  ゆえに健朗は、寮祭のときに交わした短い会話にショックを受けていた。つまり藤枝は、同居など考えていなかったらしいのだ。  黙り込んでいると父が厳しい声を向けてくる。 「早く決めろ。同居するなら届けを出さねばならんのだ」 「分かっている」  と答えたが、実のところ、どうしたら良いかなどまったく分かっていなかった。  悶々としながら洗濯と掃除を終え、干し方を指導したのち、洗濯物が乾いたら畳んで仕舞うよう指示して寮へと戻る。  なんとかしなければならないと考えてはいる。だがどうするべきか分からない。そもそも他県、あるいは海外で勤務するなら同居など無理だ。そうなったらどうするべきか。そう考えは進んでいるのに、勤務地が決まったのかすら、まだ聞いていない。  いや、聞けないのだ。 (もし、同居を断られたら……)  そう考えて臆する心が、やはりある。  健朗の中で規定の進路となっていた藤枝と共にあること。藤枝も当然同じに考えていると、当たり前に思い込んでいた。しかしここにきて、そうではない可能性、つまり卒業と同時にフラれてしまうのでは、という可能性が見えてきた。想像するだけで戦慄をもたらす、考えたくない可能性が。  だが正直、それはないだろう、という思いもある。  好きだと言ってくれている。自分の気持ちも伝わった。だからこそセックスしているのではないのか。何回もしたセックスでは藤枝も気持ちよさそうであり、自分だけの満足を得ていた最初とは違う。互いに互いを必要としているという実感を得ていたつもりだった。それで問題無いだろうと思うのは、当然では無いのか。  だが…… (藤枝は、卒業までのことだと考えている、ということか)  考えたくは無いが、冷静に考えれば致し方無いことにも思える。  自分と違い、藤枝は女にモテる。いくらでも交際相手は現れるだろう。  そもそも藤枝は尊敬すべき男であり、自分などよりよっぽど立派な家庭を築くことができるに違いないのだ。  自分などに抱かれてくれるのは僥倖であると考えれば、彼のやることを邪魔したり無礼を働いて尊厳を侵すなど、絶対にしてはならないと、常に自分に言い聞かせ続けている。……セックスの最中は、つい、というか、うっかりというか、その箍が外れてしまうのだが。  そんなことを考えながら、ため息混じりに階段を上り、自分の部屋へ向かおうとする途上の廊下で、小松と姉崎が笑いながら話していた。構わず歩いて行くと、姉崎がこちらに気づいて「あっ、健朗~」ニッと笑って片手を上げた。  昨年は忙しそうだった姉崎だが、寮に戻ってからは暇そうで、こんな風にダラダラしている。どうやら院に上がることが決まっているらしく、院生用の寮に移るといって二年三年に荷物を運ばせたりと下僕のように扱っているのも見た。おそらくなにか対価を払っているのだろうが。 「じゃね小松。よろしく~」 「おっけ、まかしとけ」  なにか弱みでも握られているのか、小松は一年のときから姉崎の思惑でひっそり動いている。健朗が感づいたのは二年の半ばからだったが、そう思えばなにかコトが動くとき、小松はなにやらコソコソやっていたのだ。おそらく橋田や仙波も分かっているのだろう。二人とも重要なことは、あえて小松に伝えていないことにも、健朗は気付いていた。 「やっほ~、健朗」  つまり姉崎は、入寮当初からなんだかんだ蠢いていたということだ。なにが目的なのかは知らんが、おそらく自分もうまく操作されたひとりなのだと、今は自覚している。  しかし。 「なになに、そんな睨まないでよ」  藤枝とのこれからについて行き詰まっている健朗にとって、一から説明する必要の無い姉崎は便利でもあった。そう気付いて、健朗の目がギラリと光る。  そうだ。今度はこっちが利用してやれば良いではないか。 「……おまえ、俺の部屋に来い」  睨みながら低い声を向けたが、姉崎がその程度でビビるわけも無い。 「な~に。お願いならアタマとか下げれば?」 「…………」  面倒なので、瞬時伸ばした手で姉崎の髪をひっつかんだ。 「いたっ、やめてって健朗」  睨み付けつつ、腕は伸ばしたまま、距離を取って構えた。なにか動きが見えたら髪を掴んだまま飛び抜けてやる。髪の毛がごっそり抜けるだろうが、かまうものか。  かつて姉崎の部屋で何度も格闘していた健朗は、必勝法を編み出していた。  コイツに身体を掴ませるのは悪手だ。ゆえに近づかせないことで攻撃を防げる。自分の方がリーチがあるから腕を伸ばしたままであれば比較的安全だ。髪の毛を掴むのは腕など掴めば簡単に返されてしまうからである。  もっとも、これで防ぐには、本気にさえならなければ、という限定条件がつく。姉崎が本気で抗ったなら、おそらく自分など瞬殺だ。合気道らしいが、おそらくこいつは段持ちだろう。レベルが一回り違う。 「痛っ、ちょっと、放しなよ、いたた、痛いって」  だが今は、鷲掴んだ髪の毛をグイグイ引っ張るのに抗わず痛がっている。  つまりこいつはまだ余裕がある。遊んでいるつもりか、あるいは隙を見せて反撃してくるつもりか。だがそれならこちらも、その余裕につけ込むのみだ。卑怯だの知った事か。 「黙ってついてこい」 「分かったよ、分かったってば、行くよ、だから放してよ」  パッと手を放し、ズンズンと部屋に向かうと「まったくもう、ハゲちゃったらどうしてくれるの」などと言いながらついてくる。まっすぐ部屋に入り、数歩踏み込んだところで体を回した。姉崎がドアを閉じ、三歩半ほどの距離で向き合う形となる。  つまり姉崎が一歩踏み出して手を伸ばしたとき、すぐに身を引いて避けられる位置を取った。 「どうしちゃったの、健朗」  クスクス笑いながら大袈裟に肩をすくめた姉崎を、にらみ据えながら低い声を出す。 「……悪知恵なら、役に立つだろう、おまえは」 「人聞き悪いなあ。ていうか、頼み事があるなら、それなりの姿勢ってものがあるよね?」  少し首を傾げて声を低めた姉崎の目は、笑みの形に細まっているが、目の奥は笑っていない。こちらの全体を窺っているような眼差しはまったく気を緩めていないし、なにげない体勢で立っているように見えるが、瞬時に動けるような緊張感がうかがえる。  ひどく警戒されているようだ。下手に動くと投げられるかもしれない。 「知恵を借りたい」  こうなると、この男がかなり扱いづらいことを健朗は知っている。なので慎重に距離を測りつつ、頭を下げた。 「へえ? らしくないね。ずいぶん焦ってるじゃない」  こいつに頭を下げるのは業腹だが、これは最重要事項だ。低姿勢になってでも解決策を探る必要がある。 「なにを知りたいの?」  グッと奥歯を噛みしめ、健朗は顔を上げた。 「どうしたら、卒業後も藤枝といられるだろう」  姉崎の目が見開かれ、気配が一気に緩んだ。 「ふぅ~ん」  にぃっと笑みを深めた姉崎を、健朗は藁にも縋る思いで見返す。 「そうねえ。そういうことなら、役に立ってあげようかな」  嬉しそうに笑いながら、ものすごく偉そうに、姉崎は言った。

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