駅から歩いて十分ほど。この部屋はわりと築年数の浅い２ＬＤＫである。 　リビングは８畳くらい。ベランダに通じる窓は東南向き。６畳の部屋を藤枝、４畳半の和室を健朗が使っている。 　キッチンや風呂もキレイで、洗面が広く、雨の日でも乾燥機能付きの風呂で洗濯物を干せるし、トイレは尻を洗える。マンションの上階なので日当たりも眺めも良い。大学卒業してすぐ住む部屋としては破格とも言うべきだろう。だが……当然、家賃はそこそこ高い。 『住環境を落としたくない』 　姉崎の悪知恵で、そう告げて同居を迫った関係上、こういう部屋を選ばざるを得なかった。ゆえに健朗は大学時代以上の倹約を余儀なくされている。藤枝は健朗より収入が高いので、ソコまでの負担を感じていないようなのが救いではあるが。 　引っ越す前にふたりでここに通い、藤枝の指導に従って家具などを整えた。それ自体、楽しかったし、ここが居心地の良い空間となったのは、さすがは藤枝と言うべきである。 　そしてこの部屋は、健朗にとって、もっとも安心出来る場所となった。ひとりでいてもひとりでは無いと感じられる、そんな温かさがある場所、つまり『我が家』である。 　やはり同居に誘うことができて良かったと、あのとき勇気を振り絞った意味はココにあったのだと、自分を褒めたくなる。 　毎朝「おはよう」、帰宅後は「ただいま」「おかえり」と言葉を交わす。 　それは妙にくすぐったい、どんな顔をすれば良いか分からなくなる状況ではあるが、そこから向かい合って、つまり藤枝がソファに座り健朗が床にあぐらをかいて、飯を食う、洗濯物を畳む、今日あったことを話す、そんな時間は、まさに至福。 　そんな落ち着けるはずの部屋で、テーブル前の床にあぐらをかいた健朗は、とっくに食い終えた弁当を睨みながらキツく眉を寄せていた。 　同居に条件を出してきた藤枝に（さすがは藤枝だ）と脱帽の思いを抱いた健朗は、（がっついてはいけない）と心に決め、セックスは週に一回という条件をきっちり守っていた。それ自体、我ながら自分を賞賛したくなるほどの忍耐力を必要とするものである。 　仕事が早く終わっても、道場に寄ってくることが多いので、帰宅は健朗の方が遅いことが多い。 　ゆえに藤枝は既に眠っていることもある。むろんそういうときはガマンする。 　藤枝の方が遅くなる場合は、仕事が忙しいのだな、と心配しつつ、疲れているに違いないと、そのときもガマンする。 　仕事は本当に忙しいようで、遠方に行ってそこで宿泊を余儀なくされる場合もあるが、いないものはしょうが無いと諦めることができる。 　しかし翌日が休みである場合は忍耐がぶち切れてしまいがちであり、（週に一回はやっていいのだ）と自分に言い訳しながら事に及ぶのだった。 　そして今日は金曜日。 　明日、健朗は休みで、藤枝も休みのはずである。つまり、……セックスしても支障の無い日、である。ゆえに健朗は、今日こそはと思っていた、部分がある。 　休みの前日に顔を合わせると、飯を食ったあと、健朗的にはかなりの努力をして藤枝を誘う。 　なぜ努力が必要かと問われれば、『セックスをしよう』などと恥ずかしすぎて言えるわけが無いからだ。ゆえに行動でそんな流れに持って行こうとするのだが、藤枝はいつも、そんな不器用な誘いを察して受け入れてくれる。 　だがこのところ、健朗がその意志を行動に移す前、つまり声を出したり手を伸ばしたりする前に、逃げるように自室に入ってしまう。 　この二週間ほど、そんなことが続いていた。 　無自覚に特大のため息が漏れたが、それを意識することも無かった。なぜならそれどころでは無いからだ。 （二週間以上、できていない） 　つまりセックスしたくてたまらなくなっており、その衝動と必死に闘っているのだ。 　部屋に逃げられた後、閉じたドアの前で、健朗はこぶしを握りしめ、奥歯を噛みしめる。 　がっついてはいけない。その予防線を同居の条件として出され承諾した以上、それ以上追うことのできない健朗は、ドアの前で立ち尽くす。 　耐えろと自分に言い聞かせながら悶々として、ドアをぶち破りそうな勢いに気付いて奥歯を噛みしめ、全精力を意志の力へ向けて自室へ引き上げていた。 　そんなときはどうにもたまらん状態になっているため、布団に潜り込んで手コキで吐き出し、とりあえず若干の落ちつきを取り戻して眠る。そんな日々が続いている。 　だがそれも限界に近づいていた。 　そんなことも、おそらく藤枝には全てお見通しだったのだろう。ゆえに今、見事に誤魔化した。 （……今日も……できないのだろうか） 　明日は土曜日。 　藤枝が悩んでいることを聞き出して笑顔にさせ、そして─────今さらきれい事など言ってもしょうがない────そうだ、なんとかセックスに持って行こうと思っていたのだ。 　その自覚に、はぁぁぁぁ、と深い溜息を吐く。 　しかし今日は失敗してしまって落ち込んでいたのだ。疲れてもいる。その癒やしを……求めていたのだろう。笑顔を向けて欲しかった。 　そして藤枝の肌に触れて、あの、暖かい幸福の中に自らを埋め込み────── 　いつの間にか握りしめていた、こぶしを思いっきり股に振り下ろす。 「……ッ」 　グッと奥歯を噛みしめた。 　まったく自分は強欲なエゴイストでしかない。藤枝のことを心配したのは嘘ではないが、結局は自分の欲望を遂げることばかり考えていた─────まったく、なんてことだ、俺はなんて奴だ。 　テーブルに両肘をつき、頭を抱えながら、ひとり落ち込んでいた健朗の耳に、「風呂、はいれるぞ」と声がかかった。自制心をぶち壊そうとする、悪魔のように魅力的な声が。 「……先に入れ」 　唸るような低い声を漏らすと、笑うような息と共に肩へポンと手が乗った。 「なに勝手に落ちてンだよ」 　項垂れた頭を抱えたまま、目を開いた。非常にやばい。 「言っただろ？　おまえが頼りないとかじゃねえって」 　肩をポンポンと叩かれ、声が笑っている、ように聞こえたとき、健朗の自制心は弾(はじ)け飛んだ。 　バッと頭を上げ、笑顔を確かめようと──── 「おわっ！　なんっ」 　すごく近くにいた藤枝は、少しのけぞって驚いたように目を見開いていた。 　笑顔ではなかった。笑っていると思ったのに、笑っていなかった。 　がっかりして動けずにいると、ぷはっと吹き出し、藤枝は「ははっ」声を上げて笑い出した。 「なんつー顔してんだよっ！　まったくガラスハート相変わらずだな」 　バンバン背中を叩かれ、姿勢を微塵も変えないまま、健朗はあり得ないほど安堵した。 （藤枝が笑っている） 　いつものような笑顔で、声を立てて笑っている。 （──────ああ、良かった……） 　呆けた顔になってしまいつつ、頭を抱えていた手が伸びたのも無意識なら、その手が藤枝の後頭部にかかって引き寄せたのも無意識。そして──────そのままキスをしてしまったのも無意識のままの行動で、唇を離してビックリした顔をしていたのは健朗の方だった。 「なんだその顔」 　間近な藤枝の顔が、ククッと笑った。健朗が手を緩めていないので、顔は近い。しかしテーブルを挟んでいるので身体を半端に曲げた状態の藤枝とは、まだ距離があった。 　もっと近くで感じたいという衝動に、テーブルを乗り越える足が弁当カラを蹴った。が、そんなことにも気付かないまま…… 「……藤枝」 　声が、漏れた。 　そう気付いたときは抱きしめていた。 「藤枝」 　体温を感じて一気に高まったなにかが声に乗っていた。 「……なんだよ」 　囁くような藤枝の声も掠れて、少し震えていた。 　その声が、健朗の情動を直撃する。 「明日は休みだ。おまえは」 「……っ、やすみ、……だけど」 　少し詰まったような声はやはり密かで、熱の籠もった息が健朗の首筋にかかる。 「二週間、無かった」 　無自覚に力のこもった両腕の中でピクンと動く身体。 「あ……うん」 　服ごしに感じる体温。首筋にかかる息が荒い。カッと頭が熱くなり、気付いたらソファに押し倒していた。体温を感じ、顔が見たいと少し腕を伸ばした。 　真上から見下ろす藤枝は、ボーッと見上げている。明るい茶色の瞳。ふちから緑色が散って────── 「……したい」 　とうとう本音が、そのまんま出た。 　さっきまで考えていたはずの、藤枝が疲れているだろう、だとか、落ち込んでいるのではないか、とか、助けたい、だとか、そんなもろもろが、そのとき一切頭に残っていなかった。 「ふじえだ」 　必死な顔になっている自覚も無いまま、手は勝手に藤枝のシャツのボタンを探り、スラックスの前も開いて、自動的に指がその奥を…… 「ちょ」 　声と共に動いた藤枝の手が健朗の手に重なる。ハッとして手が止まる。少し身を起こすと、藤枝は、はあっと息を吐いて苦笑した。 「ばか、可愛い顔すんじゃねえよ」 　誰のことを言っている。 　あまりにビックリして止まっていた健朗の唇に、下から藤枝の唇が押し付けられる。 　唇を吸い上げながら、両腕で抱きしめる。そこに必要以上の力がこもる。 「んっ」 　鼻に抜けるような声が脳髄に点火したかのように情動が燃えさかり、あるかなきか程度にまですり減っていた歯止めがけし飛んだ。 　衝動の命じるまま、自分の前も開いて藤枝のそれに擦りつける。ジン、と湧き上がった感覚に、目元には無自覚な涙が滲んだ。 「は……にゅう、おいバカ……風呂、ぅ……」 「いい」 「だっ……て、おま……んっ」 　藤枝のものも猛っていた。無意識に腰を動かし擦りつけて快感を求めてしまいながら、手は藤枝の肌を求めて衣服を剥ぐ。 「あとで、一緒に」 「ばかっ、ンな」 「頼む」 　露わになった首筋に唇を押し付け、そこを舐め上げる。「んっ」藤枝の抑えた声に、情動は激しく燃え立った。 「ふじえだっ」 　ソファがきしむ音、擦りつけていたものを二本まとめて手の中に収め、夢中で扱きあげる。首筋から鎖骨へ、胸元へと舐め、吸い付き、……ああ、気持ちいい…… 「んぁ……ばっ、……くっそ、この、は……」 　声が聞こえる。藤枝も気持ちいいのだ。自分もあり得ないほど気持ちいい。それ以外考えられない。しかし胸元に吸い付いていた健朗は、強い力で顔を上げさせられた。藤枝の両手が頬を包むように掴んで──────唇が重なった。 　激しく吸い上げる藤枝に、カアッとアタマの中が真っ赤になる。気付いたら倍する勢いで唇を吸い上げつつ、低く呻きながら精を吐き出していた。