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桜の時
よく晴れた空をぼくは、ぼんやりと眺めていた。
周りに大きな建物が無いのと、高層マンションの最上階と言うこともあり邪魔するものが何もなくて青い空が近くに見えた。
ふと下に視線をずらすと桜の木が満開なのか、所々にピンク色の木が並んでいるのが見える。
「さくら…」
パパはまだ寝ているので、ぼくの小さな声は誰に聞かれるともなく静かな部屋の壁に吸い込まれていった。
またこの時期が来たのかとぼくは嬉しくなる。
店に居た時に桜餅を出してもらったことがあったのだ。
店の食事は巽の趣味だったのか、方針だったのか和食が多くてスイーツなんて見たこともなかった。
しかし店の庭にあった桜が咲く頃、店でお得意様を招待してお茶会が開かれるらしい。
当然ぼくは出られるはずもなかったが、その日の夕飯に残った桜餅を浅間が持ってきてくれる。
『ほら“バラの棘”夕飯の時間だぞ~?今日は茶会で余った桜餅持ってきたぞ』
『さくらもち?』
『ん?桜餅食べた事ないのか?』
浅間の言葉にぼくはコクンと頷いた。
パパの処ではスナック菓子ばっかりだったし、あの頃は甘い物は飴くらいしか食べた事がなかったので、ぼくは浅間の手の中にある桜餅に釘付けだった。
『この回りの葉っぱは食べられるんだぞ…はじめてならゆっくり食べろよ』
そう言って浅間は部屋を出ていってしまったが、ぼくはそんな事も気にならないほどそれを凝視していた。
黒い餡のまわりにピンク色の薄い皮が巻いてある。
一番外には緑色の葉っぱが巻いてあって、匂いを嗅ぐと甘くてそれでいて不思議な薫りがした。
それをそおっと持ち上げるとふにゃっとしていて柔らかい。
『あまい…』
おそるおそるそれに口をつけると口の中に甘みと香りが広がった。
ぼくは久々の甘味にそれをゆっくり食べた。
浅間は回りの葉っぱは食べられると言っていたが、少ししょっぱくて一口食べただけでやめて剥がしてしまった。
桜餅を食べ終わると、ぼくはスケッチブックを持ってきて口に味が残っている間に急いで絵を描いた。
ぼくは食事をするのを忘れ、一心不乱に桜餅のイメージを紙に落としていった。
それを知った巽は、次の日浅間に桜の枝を届けさせぼくの居た部屋に桜餅の香りが充満していた。
その時はじめて桜餅の香りは桜の香りだったのだと知った。
「そうだ!」
ぼくはあることを思い出してゆっくりと立ち上がるとよろよろとではあったが本棚に急いで駆け寄る。
絵本と一緒に立っていた店で使っていたスケッチブックの1冊を引っ張り出し、ペラペラと紙を捲ると目的のページを見付けた。
「このワンピース…作れるかな?」
店に居た頃は気分が良い時はよく絵を描いてすごしていた。
はめ殺しの窓から見える庭の様子や、たまに窓の外に来る鳥、食べたものの絵など多岐にわたったが一番多かったのは洋服のデザインだ。
パパのところで見ていたマジカルミコミコの影響でふわふわの洋服を描くことが多かった。
その1つが今見ているページだ。
ピンク色の桜をイメージしたワンピースで、裾が桜の花弁をイメージした形になっている。
最近少しずつ本を見たりして色々作れる様にはなってきたが、人間が着るものはエプロンまでしか作ったことがなかった。
もっぱら作るのは簡単に作れる小物ばかりだ。
「むー。いやだけどべんきょうしたほうがいいよね…」
ぼくは顎に手を当てると首をかしげて考える。
店では読み書きから計算まで橋羽にみっちり勉強させられたが、如何せん橋羽がスパルタだったので勉強はあまり好きではない。
パパが起きてきたら相談してみようと思って時計を見た。
「きのうたくさんねたのに…」
壁にかけてある時計を見たのに、目が霞んでいるのか文字盤がぼんやりとしか見えなかった。
ぼくは目をごしごしと擦りながら目を細めてもう一度時計を見た。
すると今度はきちんと見えたので、気のせいだと思ってもう一度立ち上がる。
そろそろパパが起きてくる時間だ。
ぼくはキッチンカウンターに近付いて、毎日の日課である珈琲マシンのスイッチを押した。
「ふぁ~。だいぶ桜も満開だな」
「パパ!」
マシンの起動音が落ち着いてきた頃、大きなあくびをしながらパパが起きてきた。
パパも窓の外をちらりと見ると感心したように声をあげる。
ぼくはパパの足元までよたよたと駆け寄ると大きく手を広げた。
パパは当然の様にぼくを抱き上げると、ぼくはパパの首筋に猫の様にすり寄った。
「明日から雨らしいから花見も今日で最後だな」
「おはなみ?」
おはなみが何か分からなくてぼくはパパから少し身体を離して首をかしげた。
パパはキッチンカウンターに近付くとカップをセットして珈琲マシンのスイッチを押している。
「ん?命お花見したことないのか?」
「うん」
「そっか…」
パパはそう言うと、ぼくの頭を撫でた後に珈琲マシンからマグカップを取ってソファーに移動する。
パパはソファーに座ると、ぼくの髪を撫でながら珈琲を啜っている。
ズズズズズ…コトン
パパがマグカップを机の上に置くと、スマートフォンを取り出した。
「花見をしたことがないなら、今日どこか花見にでも行こうか」
「おはなみって何するの?」
「花見は…桜を見ながら食べ物や酒を飲んだりするんだ」
「ふーん?」
ぼくはパパの言っている事がいまいちピンと来なくてまた首をかしげた。
店で開かれた“お茶会”と似てるのかもしれない。
「とりあえず何処か桜を見に行くか…」
「うん!!」
ぼくはパパの言葉に大きく頷いた。
パパはスマートフォンを触りながらぼくの髪の毛を弄って遊んでいる。
ぼくは何をするわけでもなくパパの胸でまどろんでいた。
やっぱりパパとくっついていると安心する。
~♪
「兄さんだ…」
携帯の着信音が鳴り出すと、パパはその画面を見て一瞬嫌そうな顔をした。
実際は眉毛が少し動いただけなのだが、ぼくには凄く嫌そうなしぐさに見える。
「はい。うん…久しぶり…は?」
しかし、渋々といった様子で電話に出るとパパは電話の声に呆れた表情をする。
空いている手では相変わらずぼくの髪の毛を指先に絡めて手遊びをしていた。
「随分急だな…花見?いや…今日行こうと思ってたけど…あぁ…うん。分かった…連れていくから…着物?」
電話口で矢継ぎ早に何かを言われているらしいパパは応対するだけで手一杯といった感じだった。
珍しく慌てているのが口調からわかる。
「あぁ…分かったよ…じゃあ」
やっと話が終わったのか、耳からスマートフォンを外した。
「はぁ~」
スマートフォンをソファーに投げ出すとパパは大きなため息をついて背もたれに身体を預けた。
「パパどうしたの?」
「あぁ…兄さんから呼び出しだ」
「なら、今日はおはなみに行けないね?」
「いやそれがな…」
パパが電話で呼び出される時は大抵仕事の時なので、ぼくは少し残念に思いながらそう言うとパパは思案顔になる。
パパと向かい合わせに座っているのでぼくが膝立ちになると、パパの顔が近くなる。
「命を連れて花見をしたいらしい」
「ぼく?」
「しかも正月に貰った振り袖着てこいっていわれたぞ」
「おきもの着るの?」
ぼくは意味が分からなくて益々首を傾げることになった。
はじめてのお花見は普通には済まなさそうな予感がした。
パパの話では、お花見にぼくに着物を着て花を添えて欲しいという事らしかった。
「はぁ。せっかく命とゆっくり花見をしようと思ってたのに…」
パパはブツブツと文句を言いながらぼくを膝から下ろして和室に消えていった。
ぼくは突然の事にしばらく呆然としていたが、パパの後を追って和室に入った。
部屋には大きな和ダンスが置いてあり、パパはそこから敷紙を取り出すと畳の上に広げそこの上に数枚たとう紙に包まれた着物を出していた。
「ん?花見は夜からだから命はまだ来なくても大丈夫だぞ」
「うん。でも、パパといっしょに居たいからいいの」
ぼくが何の気なしにそう言うとパパは一瞬何とも言えない顔になり、その後ぼくをぎゅっと抱き締めた。
それから動かなくなったので、頭をぽんぽんと撫でると、ぼくの胸の辺りからすぅと大きく息を吸い込む音がした。
「パパ?」
「大丈夫…」
ぼくが声をかけると、パパは顔をあげて頬に手を伸ばしてくれたのでその手に顔を寄せた。
「何枚か出してみたけど、命はどれがいい?」
ぼくは頬をスリスリと撫でられながらパパが敷紙の上の着物に視線をずらしたのでぼくもそちらを見た。
1枚はお正月に着たうぐいすの柄で、他には藤の花、古典的な毬の柄など数枚たとう紙の窓の所から見えていた。
「むらさき色にする」
ぼくは少し考えてから藤の花が描かれている着物を指差した。
「じゃあ、これにしておこうな」
「うん」
パパはぼくの言葉に頷くと、他の着物を和ダンスに戻していく。
その後ハンガーを出して折皺を伸ばすために着物を吊るした。
帯や小物も選んで並べると、パパはまたぼくを抱き上げて和室を後にする。
「夜まで時間が空いたから仕事するか…どうせ今日は遅くまで付き合わさせられて明日何も出来ないだろうからな」
パパは大きく溜め息をつくとぼくに顔を寄せた。
髪に指を絡め、ぼくの鼻先に軽くバードキスをしてくれる。
ぼくがパパの頬にちゅうっと唇を押し当てるとパパは難しい顔を綻ばせてふふふっと笑った。
「さぁ…何か食べるか」
「うん!」
パパとキッチンに向かうと、ぼくは椅子に下ろされパパが冷蔵庫を物色しているのを見ていた。
しばらくすると、ぼくが好きなフルーツのサラダとパパが食べるのであろうパンとスープ等が乗ったお皿を持ってきた。
「ゆっくりでいいんだぞ?」
ぼくは食べるのが遅いので結構時間がかかってしまうが、パパは急かすことなくぼくが口を動かすのを珍しくにっこりと見ている。
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