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桜の時5

パパは家に帰ってくると着ているものを全て脱ぎ捨てながら寝室に向いそのままベットに沈んでしまった。 しかし、パパは廊下の電気をつけたままにしてくれていたのでぼくは着物を和室で脱ぐことができた。 僕の身長では着物を吊るしておく事はできないので、なるべく綺麗に畳んでおくことにする。 義博からもらった髪飾りは大切に箱に仕舞ってリビングの自分のスペースに持っていく。 「大丈夫。ね?わんちゃん…」 ぼくは下着姿のまま犬のぬいぐるみを抱き上げ、背中のファスナーを下ろした。 ガサガサという音を立てて薬の束を取り出して錠剤を手に出すと、花見会場からパパが貰ってきたペットボトルのキャップを開ける。 薬を口に放り込んで水を口に含む。 ゴクン 薬を飲み込むとすぐに効いてくる訳ではないが気持ちが楽になる。 ぼくは時計を見ずに近くにあった携帯を取り上げボタンを押す。 プルルルル 『はい』 「こんばんは先生…」 呼び出し音の後に男の人の声がした。 「先生…お薬を新しくしてほしいの」 『…最近薬を処方したばかりのはずですが?』 「今日嫌な事思い出しちゃって」 『では近々カウンセリングを行いましょう』 「今日にしてもらっていい?」 『ご主人はご存じで?』 「今は寝てる。多分朝まで起きないから今日にして」 ぼくは電話の相手に心配されつつ懇願する。 電話の向こうの人物が大きなため息をついているのが聞こえた。 『分かりました。では、迎えを寄越しますのでいつもの場所に降りてきて下さい』 「わかった」 ぼくは電話を切ると急いで着替えて部屋を出る。 エレベーターに飛び乗って地下の駐車場に降りてしばらくすると、黒塗りの車が目の前で止まった。 扉が自動で開いたので、ぼくはその車に無言で乗り込むと車はすぅと音もなく動き出した。 ぼくはたまに誰にも内緒で出掛けることがあった。 それはパパにも、もちろん一番仲良しの友達である玲ちゃんにも話したことはない。 「はぁ~」 ぼくは大きく溜め息をついて流れていく街頭を見ていた。 お仕事をしている時も、よく移動中に車の窓から景色を眺めていた。 現在、店からパパの家に戻ることができて薬を飲んでいることはパパには知られているが定期的にカウンセリングを受けて薬をもらっている事は話していない。 「お待たせしました」 「ありがとう…」 物思いにふけっていると大きな洋館の裏口に車が止まる。 運転手さんがぼくを振り替えって到着を告げるのでぼくは軽く礼をして車を降りた。 歩き始めは相変わらず緊張してワンテンポ遅れてしまうが、ぼくは洋館の方へ足を進める。 ピッ ぼくはセキュリティパスを使って裏口の扉を開ける。 この大きな洋館は、CLUB Aliceという会員制のSM倶楽部でぼくの怪我を看ていてくれたダイヤちゃんも、会った事はないけどパパのお友だちのクラブさんもここの“調教師”と呼ばれる人達だ。 ぼくは迷うことなく、とあるドアの前まで進んでいく。 ガラッ 「こんばんは…K先生」 ぼくはノックすることも無くスライド式のドアをゆっくり開けると白衣を着た男の人がデスクに座っていた。 K先生は CLUB Aliceで何かあったときにの為に常駐している医師の一人で、ナンバー持ちと呼ばれる調教師の一人でもある。 薬をお願いする時はこの医務室に直接電話をかけて先生にお願いするのだが、たまにダイヤちゃんが代わりに電話に出たりする。 この前は運悪く、その“たまに”に当たってしまてお小言を言われてしまった。 ダイヤちゃんは嫌いではないのだが、お店時代の経験から少し苦手なのだ。 「こんばんは…“バラの刺”」 「そのなまえで呼ぶのやめてくれない?もうぼく引退したんだよ?」 K先生は驚いた様子もなくぼくに声をかけたが、その言葉にぼくは思わずイラついた声で吐き捨てる。 お仕事をしている時は、パパや玲ちゃんと居るときの自分ではなくなってしまう。 それの延長なのか何故か巽やダイヤちゃんの様なぼくのお仕事を知っている人の前だと言葉遣いも気にせず話すことが多い。 「それで、どうしました?」 K先生はカルテらしき紙を机に広げてこちらに向き直るので、ぼくはK先生の目の前の丸椅子に座る。 「嫌な事を思い出したから、薬新しくして」 ぼくは椅子に座って早々に詳しい事情など一切話さずに一言だけ言い放った。 薬のお陰で少し落ち着いているが、今になって手が震えているのをぼくは必死に押さえる。 「今の薬はだいぶ強い方なのですがいいんですか?」 「パパには言ってない事だから、自分でどうにかしたい」 ぼくがうつむき加減で言うとK先生から大きなため息が出る。 「あなたは少し自分のご主人様を信用してもいいと思いますよ?まぁ、あなたに言っても聞かないことは承知してますのでまぁいいでしょう…」 K先生がブツブツと言いながらデスクに付いている引き出しの一番下の段から一束薬を取り出した。 それをぼくの目の前でガサガサと紙袋に入れる。 「今の薬と一緒に飲んでください。量はけして間違えないこと!」 「うん…分かった」 デスクの端にその紙袋を置くと、いつも同じ事を言われるのでぼくは短く返事をした。 薬は飲み過ぎると毒になる。 毎回、飲む量を注意されるが以前のぼくなら沢山飲んでいたかもしれない。 店にいた頃のぼくは、無気力でただ命を繋いでいるだけだった。 しかし玲ちゃんに出会い、新しく入ってきた理くんに出会ってパパが生きていることを知った時から少しは生きてみようと思える様になったのだ。 何よりもっとパパと一緒に居たい。 そう思った途端、胸がぽかぽかしてきて早く家に帰りたい気持ちが沸き上がってくる。 「ここまで来たのでしたら、身体の方も診ておきましょうか…服を脱いで、その籠に入れてください。下着は着ててもいいですよ」 K先生がそう言うので、ぼくは早く帰りたいなと思いつつ上着を脱いでいく。 ぼくが上着を脱いでいる間に何処かに電話しているのか受話器に耳を当て、何か話している声が聞こえてくる。 「はい。お願いします。では…“バラの刺”準備はできましたか?」 受話器を置いて先生は聴診器を耳に当てた。 それから大きく息を吸い込むように指示されたり、後ろを向くように言われるのでぼくは指示通り動く。 「背中の傷も薄くなってきたのもありますね。他に何か気になる所はありますか?」 上半身を一通り診察し終わると、ぼくはK先生の方へ向き直る。 「うーん。最近少し遠くが見えにくい時があるかな?」 「目が…」 今朝もそうだったが、目がかすんで一瞬見えにくいことがあった。 その事を正直に話すと、K先生は思案顔になる。 「では何処か痛いことはありますか?」 「えっと…たまに背中とか足とか痛いかな?」 「では、ちょっとこっちに来てください」 先生はさっと立ち上がると身長を測る器具の横に立つ。 「靴を脱いで、顎を引いてここに立ってください」 ぼくは指示された通り靴を脱いで棒を背に立つ。 上から何かが降りてきて頭の上に当てられるので、ぼくは気になって上を向きたいのをぐっと我慢する。 「120…8ですね。やはり少し伸びた様です」 「それって目が見えにくいのと関係あるの?」 「成長するにつれ、目が悪くなる人も居るのでそれでしょう。今度きちんと別の所で測ってきた方がいいですね」 コンコン ぼくが説明を受けていると、ノックの音が部屋に響く。 しかし、K先生が返事をする前に無精髭に白衣を着た人が勢いよく扉を開けて入ってきた。 「ノックの意味がありませんよ?」 「堅いこと言うなよハニー」 「ここでその呼び方は止めて下さい」 K先生は入って来るのが誰か分かっていたのか驚きもせずに入ってきた人物に突っ込みを入れている。 しかし、相手も気にせずK先生の腰に腕を回して抱き寄せている。 「おっと…患者さんが居るんだったな。はじめまして。俺は“帽子屋”だ」 男は悪戯っぽく笑うと先生の腰を抱いたままやうやうしく頭を下げる。 「ハニーは簡単な治療は出来るが、専門は内科だからな。君の足は俺が診察するよ」 帽子屋と名乗る男に若干の不安を感じつつ、ぼくは頷くしかなかった。 「うん。足は問題なし!」 「もう服を着てもいいですよ」 ハイソックスを脱ぐように言われ、診察台に寝るように指示された。 その後帽子屋に足を診察してもらう。 ふくらはぎを押され、足首の後ろの傷も見られるが異常が無いとの事で少し安心した。 K先生から服を着る許可も貰ったのでもそもそと上着やくつした再び着る。 「それにしても“バラの刺”は、男好きする身体つきしてるんだな。胸まで出来て…」 「え?」 帽子屋はK先生のいつも座っているデスクの椅子を占領していた。 そんな帽子屋の発言に一瞬何を言われたのか分からなくてぼくは動きを止める。 「短期間でだいぶ体型が変わりましたよ。これは新しいご主人様のご趣味みたいです」 「へぇ。それはそれは…」 帽子屋の横に立っていたK先生が言い放った一言に帽子屋はニヤニヤ笑ってる。 言われた意味が分かって、ぼくはムッとしてしまう。 「お薬もらったから帰る!」 ぼくは机の上の紙袋を掴んで足早に部屋を後にした。 扉が閉まる瞬間、帽子屋がK先生の首筋に噛みついているのが見えたがぼくはまた大きくため息をついて屋敷の外へ向かう為に大きな扉を目指して歩き出す。

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