91 / 119

狼は腹の中04

不貞腐れて煙草を再び吸っている圭介を部屋に入れてやり、俺はすぐに圭介にペンを渡す。 「ちょっとこれに名前書いて?」 「え?」 突然の事にいぶかしがる圭介の前に何も書かれていない紙を机の上に置いた。 圭介にダイニングテーブルに座るように顎をしゃくると、椅子を引いてどすんと腰をおろす。 「子供みたいなイタズラして悪かったな。お詫びにそのペンをやるからここに試し書きしてみな」 「こんな高そうなのいいんですか?」 「お前が学校で使ってる玲ちゃんに貰った奴ほど良いヤツじゃないけど、仕事で使えよ」 俺はにっこりと笑う。 圭介の肩越しには玲ちゃんが心配そうにまたチラチラこちらの様子をうかがっているのが見える。 「試し書きはいいんですけど…何で名前なんですか?」 「自分の名前は人生で一番書くから、何も考えなくてもすぐに書けるだろ?」 「あ、確かに」 俺の言葉に圭介は何が納得したように頷いたが、俺は心の中でチョロいなと思ってしまう。 普通は何にでも迂闊に名前なんて書かないものだろう。 それは何に使われるか分かったものでは無いからだ。 そんな事など頭に無いのか、紙の下の方に圭介はさらさらと名前を書いていく。 「お前国語教師の癖に字が汚いなぁ」 「本気出したら綺麗ですって!」 「ならもう一枚書いてみろよ」 圭介が書いた名前を見て、そこまで汚い字では無かったが俺が少し笑ってみせるとムキになる。 そんなところがチョロいのだと本人は気が付かないのだろう。 俺が新しい紙を取り出すと、圭介はそれにまた名前を今度はゆっくり書いていく。 「見てください!綺麗に書けましたよ!」 「そうだな。なら、それやるからさっきの事はチャラな」 圭介は先程より綺麗に書かれた名前を自慢げに見せてくる。 そんな仕草が随分と子供っぽい。 俺は紙を片付け、明るく言ってやると立ち上がってコーヒーマシンを起動させる。 ガリガリとコーヒー豆を削る音と芳ばしい香りが部屋に漂いはじめた。 「翔~?コーヒー飲む?」 「あ、欲しいです!」 俺達の様子を遠巻きに見ていた翔に声をかけると、明るい声が返ってきた。 命や玲ちゃんは俺達の話が終わったのを感じて近付いてくる。 「おはなしおわった?」 「おわったよ」 命が足にぴったりとくっついて来たのを感じて、すぐに抱き上げてやる。 「圭介にサインも貰ったしな」 「おなまえは大事なのにね」 俺が声を落として言うと、命もクスクスと楽しそうに笑い出す。 俺は圭介にただ名前を書かせた訳ではない。 これが一番のお仕置きの準備なのを圭介は気が付いていないだろう。 圭介がサインした紙は、後程契約書になり玲ちゃんとの情事の映像を流す許可と共に、その映像や今後玲ちゃんを使ったモニターなどの映像や広告媒体の権利を全て俺に譲渡するという内容の物になる予定だ。 家業自体反社会的で違法ギリギリなのに、白紙の契約書位子供だましの様な物だ。 後日、有料会員サービスに圭介と玲ちゃんのラブラブセックスの動画を配信したところ、何故だか命と玲ちゃんをイメージして作ったうちのショップのオリジナルレーベルの商品が飛ぶように売れた。 しかも、玲ちゃんをモデルにしたオナホールが二種類とも品切になったのはまた別の話だ。 + すっかり梅雨も明けて日差しが暑くなってきた。 俺と命はとあるアメリカの有名な某ファーストフード店の前に居る。 「しょうちゃんいるかな?」 「大丈夫。ちゃんと聞いてある」 俺は命を抱えたまま店内に入ると、大きな声で“いらっしゃいませ”という声が聞こえる。 独特の香りが漂っているし、店内も昼を過ぎた時間なのにガヤガヤと賑やかだ。 「あ、パパさん。いらっしゃいませ」 「今日が最後だって聞いてたから迎えに来たよ」 「ありがとうございます」 いつもの翔とは違い、冷静な対応に少し不思議な感じがする。 「ごめん。システム分からないんだけど、何がおすすめ?」 「セットとかはお得ですよ」 「じゃあ、翔が適当に選んで?」 「は?」 翔は一瞬困ったような顔をしたが、すぐに笑顔に戻ってレジのタッチパネルを操作している。 「もうすぐバイトあがりでしょ?店の中に居るから終わったら一緒に帰ろう」 「はい。あ、商品はお席までお持ちしますので、少々お待ちください」 翔は営業スマイルを浮かべて軽く会釈したので俺はのんびりとカウンターから離れた。 1階では騒がしく落ち着かないので、2階席に向かう。 そこでは学生が勉強していたり、ビジネスマンが仕事をサボっていたりと下の喧騒が嘘のように静かだった。 「お待たせしました!」 「しょうちゃん!!」 しばらくすると、注文した商品が乗ったトレーを持って翔がやってきた。 翔は仕事を終わらせて来たのか服が制服から私服に変わっている。 翔がトレーを机に置いたところで、命が手を広げる。 「翔も何か買っておいで…ついでに今日で最後なんだから駅ででも差し入れでも買ってきなさい。俺と命はここに居るから」 「あ、ありがうございます」 俺は一万円札を翔に渡してやると嬉しそうな顔で下の階に消える。 「ぶぅ。しょうちゃんにだっこしてもらおうと思ったのに!」 「悪かった、悪かった。ほら俺の膝に乗せてやるから機嫌なおせ…な?」 命は広げた手を下におろすと、不満げにこちらに顔を向けた。 柔らかそうな頬も膨らんでしまっている。 今度は俺が腕を広げてやると、横に居た命は俺の膝に乗り上げてきた。 「ひろみつさん…しょうちゃんばっかり」 「そんなことないぞ?」 命は、俺の胸に頭を預けまだ頬を膨らませている。 その頬があまりにも柔らかそうで、思わず人差し指でぷにっと押す。 すると空気の抜けるぷす~という間抜けな音がした。 少し離れた席に居た学生のグループからはクスクスと小さく笑い声があがる。 「むぅ!!ぼく怒ってるんだからね!」 それが気にくわなかったのか、命が怒りだして掌にかみついてくる。 しかし命が怒ったところで全然怖くないし、子猫がじゃれてる位の感覚だ。 「分かった…家に帰ったら、久々に入れてやるよ」 「ほんと!?」 手がくすぐったくなってきたので、耳元で囁く。 ぱっと嬉しそうな顔になったので、トレーの上の小さなポテトを渡してやった。 それを受け取ってカリカリと上機嫌で食べ始めたので俺はひと安心する。 以前は毎日命で処理していた性欲も、流石に歳と共に回数が減ってくるのも仕方のないことだろう。 圭介の様に毎日相手にするなど、俺の頭にはない。 俺の一言に命が上機嫌になるのも当然で、翔の相手ばかりしているのも気に入らなかったのだろう。 「へぇ。パテが薄いけど、なかなかだな…」 俺も翔が選んだバーガーを取り上げ、包み紙を外してかぶりついた。 少しパテが薄めだが、味はなかなかだと思う。 実家に住んでいる時はお手伝いさんがお弁当を作ってくれてたし、今の家に住みだしても何かと兄さん達が俺の食事を心配して食事に連れて行かれることが多かった。 なのでファーストフード店というものを実はこの歳まで利用した事がなかったのだ。 「もう、これ要らない」 「はいはい」 命が減ったか分からない位食べたポテトの包み紙を寄越すので、俺はそれを受け取ってトレーの上に戻す。 翔を待っている間に軽く食事を終わらせた俺達は大きな窓から見える駅前の風景を眺めていた。 翔のバイト先は基本的に駅から近い。 人が行き来しているのを眺めているだけで、こんなに世の中には人間が居るんだなと考えてしまう。 「パパさんスミマセン」 「終わった?」 翔が足早に戻って来たので、俺は手を挙げて合図してやる。 手には紙のカップに入った飲み物を持っていた。 「これ、お返しします!」 「ん」 俺の手にお釣りを乗せてきたのかと思ったが、手の上を確認すると一万円が使われずに鎮座していた。 「パパさんに言われて、差し入れしてきました。困ったらまた戻ってきていいって引き留められちゃいました」 翔は照れくさそうに頬を掻いている。 翔の話では高校に入ってすぐに始めたバイトがこのファーストフード店だったのだそうだ。 思い入れのあるバイト先を辞めるとなると、感慨深いものがあったのだろう。 「俺の金で、差し入れしたかったんです。パパさんに言われるまで思い付きもしませんでしたけど…」 「そう。それはお役に立ててよかった」 俺は返ってきた一万円札をジャケットのポケットに適当に押し込む。 翔は、ここでバイトをはじめて楽しかった事や思い出をぽつりぽつりと話はじめたので俺はその話に相槌を打ちながら話を聞いていた。 「あ、命くん眠くなってきた?」 翔が眠そうに目を擦り始めた命を見て話を中断させる。 「そろそろ帰るか」 「そうですね!」 「原稿しながらでも話は聞けるからな」 原稿は翔のおかげて順調に進み、あと少して脱稿できそうだ。 原稿が終わったあとは、勉強をするつもりらしく少し大きめのバックには勉強道具が入っているらしい。 学生も大変である。 俺は膝の上に居る命をそのまま抱え直し、立ち上がる。 ポケットに入れていた鍵の束を手探りで探しつつ、翔を先頭に階段を降りていく。 眠そうにしていた命は、早々に夢の世界へと旅立ってしまったのか寝息が聞こえはじめる。 ふと翔のつむじを見て学の事を博英の部下に任せきりだと言うことを思い出したが、それも帰宅する為に車を運転していたらすぐに忘れてしまっていた。 どうでもいいことはすぐに忘れてしまうのは仕方のない事だ。

ともだちにシェアしよう!