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入園式(2)

「俺は青木優一郎といいます。あなたのお名前は?」 向かい合って両手を繋いだまま顔を覗き込まれ、オレは顔が熱くなるのを感じながら小さな声で名乗った。 「小林慈雨、です」  小さな声だったから、優ちゃんの耳が唇に触れるほど近づいて、耳たぶにピアスホールの窪みがいくつも見えた。 「じう」 優ちゃんはオレの名前を繰り返してから、受付のテーブルにセロファンテープで直接貼りつけてある名簿を指先で辿った。 「慈雨。素敵な名前だ」  オレの名前を指先で撫でて、それから折り紙で作られたいろんな形のいろんな色のコサージュが入った箱を手に、オレの前にすらりと片膝をついた。 「どれでも好きなものをどうぞ」  一番最初に目についたのは、ピンクの薔薇のコサージュだった。ワイングラスのように根元が膨らみ、一度先端に向かって窄まって、それから幾重にも重なっている花びらがフリルを伴って外側へ開いていた。  でも、オレはためらった。『お母様を守る男なのにピンクは変かな。ブルーかグリーン、せめてレッドにしたほうがいいかな』と考えたからだ。  優ちゃんは人の視線に敏感なので、おそらく最初にピンク色を見たオレの視線にも気づいていたんだと思う。 「何でも、慈雨の好きな色と花でいい。慈雨はピンクも水色も、赤も青も黄色も緑も白も黒も全部似合う」  気障っぽくウィンクされて、まだ三歳だったオレは簡単に『すてき!』と思った。  ぱくぱくする心臓を両手で押さえ、優ちゃんの目を見るのが急に恥ずかしくなって俯いて、優ちゃんの微笑む気配にますます顔が赤くなって、隣にいた弥生のスーツに痒くなった顔を擦りつけた。  優ちゃんは急かすことなく箱を差し出し続けてくれて、弥生に促され、オレはようやく箱の中を指差して訊いてみた。 「この、ピンクのお花でもいいかな?」  優ちゃんは大きく頷いた。 「もちろん。小林慈雨さん、ご入園おめでとうございます。学園へようこそ」 優ちゃんはオレの胸ポケットにピンクの薔薇のコサージュをくっつけてくれた。 「とてもよく似合う。慈雨はセンスがいい」  オレはそこで保護者席に向かう弥生と別れたが、不安や寂しさよりも背の高い優ちゃんに抱き上げてもらい視界が一気に開けた楽しさのほうへ目を奪われた。 「わあっ!」  天井が近くて、一面に吊るされている折り鶴に手が届きそうだった。 「触りたい? どうぞ」  さらに高い位置へ抱き上げてくれて、オレは美しい千代紙の鶴にそっと触れた。  折り紙よりしっとりと柔らかで、模様も華やかで素敵だった。  優ちゃんは控え室までオレを抱っこして行ってくれて、さらにトイレへ連れて行ったり、シャツをズボンの中へ押し込んだり、洗った手をハンカチで拭いたり、いっぱい世話を焼いてくれた。  先導係の園生たちがやって来て、入場順に廊下に並ぶと、優ちゃんは大きな手でオレの頭をぽんぽんと撫でて笑った。 「俺は先に講堂に行く。ピアノを弾くから聴いて」 「うん」  優ちゃんが広げた大きな手のひらにパチンと自分の手をあてて、バイバイと手を振った。それだけでももう悲しくて、ほかのお世話係の園生たちと話しながら歩き去る優ちゃんの後ろ姿に、ちょっとだけ涙が出た。  講堂のソファみたいな分厚いドアの前で少し待って、そのドアが開けられた瞬間にピアノの音が流れ出て、それはブロンズの騎兵隊が飛び出してくるような音楽だった。  子ども向けに軽やかに演奏されたエルガー作曲の『威風堂々』は、オレの足も軽やかにした。手をつないで隣を歩く男の子が上体をオレから遠ざけるくらい、手と足を動かして行進した。  優ちゃんの演奏に乗って入場し、小さな木の椅子に座って、両手を膝に置き、背筋をしっかり伸ばした。  本人の記憶によれば「楽譜を見たのは当日」だったそうで、隣にツインテールの可愛いお姉さんが座っていて、優ちゃんが小さく頷くたびに優ちゃんの前まで身を乗り出し、手を伸ばして譜面をめくっていた。  オレはその譜めくりのお姉さんを羨ましいと思ったけど、演奏が終わると優ちゃんはすぐに会場内へ視線を走らせ、オレの目を見て一瞬だけ左の口角を上げてくれたので、とても満足して園長先生のお話を聞くことができた。  自由にのびのび遊ぶことがモットーな学園だったので、入園式の演出も賑やかで楽しかった筈なんだけど、ピアノの前に座ってほかの人のパフォーマンスに手を叩いたり、コールしたり、周りの人と小声で短い会話をしたりしながら笑っている優ちゃんの姿しか、オレは覚えていない。  入園式が終わって、控え室で弥生と合流して改めて担任の先生とご挨拶をしたり、連絡事項を聞いたりして建物から出ようとしたとき、優ちゃんが後ろから走って来て追い抜いて、オレと弥生の前に立った。 「写真を撮ろう!」  オレは口をもにゅもにゅさせながらくせっ毛の髪を指先で引っ張ったけど、優ちゃんが弥生からコンパクトデジタルカメラを受け取り、入園式の看板の前に立たされた。 「慈雨、もっと笑って。はい、チーズ!」  弥生と手をつないで、優ちゃんに促されるままニッコリ笑ったけど、正直あんまり嬉しくなかった。  優ちゃんはシャッターを切っただけで満足そうでニコニコしていたけど、そこは母親の弥生が気を利かせ、 「青木くんも慈雨と一緒に写らない?」 と誘ってくれた。弥生、よくやった!  オレは優ちゃんに向かって両手を伸ばし、抱き上げてもらうことに成功して、首に抱き着いて満面の笑みを浮かべた写真が今でもアルバムに残っている。

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