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優ちゃんと呼ばれるようになった訳

 お昼休みは、遊びボランティアの上級生が幼稚園へやって来て、鬼ごっこなど集団遊びのプレイリーダーや、紙芝居や絵本の読み聞かせ、お絵描きやままごとの相手などをしてくれる。  風呂敷サイズの布を草木で染めてパッチワークした、手作りのパラバルーンを上級生が歌に合わせて上下に動かし、その下を駆け抜ける遊びなんかもした。  オレはおままごとやお人形遊びが好きで、たいていは白いフリルのついたエプロンをして、マジックテープでつながっているニンジンやジャガイモを木の包丁で切って、木のお鍋で煮込んでいた。  その日も優ちゃんは遊びボランティアのネームホルダーを斜めがけにしていたけれど、白目は赤く、あくびばかりして、俺の隣にぼんやり座っていた。 「ピアノを弾いていたら朝になってた。とりあえず学校へ行こうと思って来たんだけど。夜寝てないと昼眠いな」 至極当たり前なことを言い、治療した奥歯の銀色が見えるほど大きな欠伸をして、なぜかタバコ臭い息を吐き、オレがおたまですくって小皿に移した見えないスープの味見をする。 「うん、美味い。慈雨は料理が上手だな」  小皿を返してくれながら、さらに大欠伸をすると、床の上に胎児のように丸くなった。子どもたちが自由に遊ぶ部屋の中で寝るなんて、いつ踏まれるか、蹴られるか。せめてピアノを弾く手は身体の内側に守る寸法らしい。実際の効果の程は知らないけど、オレと出会ったとき、彼にはすでに両手を脇の下に挟むような腕組みをする癖がついていた。  寝転がっておままごとの相手をするボランティアなんて優ちゃんだけで、ほかの上級生は小学生ですら笑顔で優しく話しかけ、根気よく遊び相手をしている。  そうやって遊んでくれる上級生たちがたくさんいるから、わざわざ目つきも愛想も悪い、言葉遣いも優しくない優ちゃんと遊ぼうと思う人もいなくて、優ちゃんはずっとオレの隣にいた。  窓から差し込む日の光は木の床を温め、優しく甘く香っていた。  その光は優ちゃんの身体も程よく温め、優ちゃんはある瞬間から身体の力が抜けて薄く唇を開いて、深い呼吸を始めた。  オレはお人形用の小さな布団を優ちゃんの肩にのせ、見えないお米を研いで炊飯器にセットして、 「お肉を焼きましょう」 と思いついて、フライパンを探し始めた。箱の中を掻き分けていたとき、不意に顔に影がさして、空気がひやりとした。 「あーそーぼ! ジャングルジム行こうぜ。戦いごっこしよう」  入園式の日に手をつないで講堂に入場したナオキが、オレの腕を引っ張った。 「あーとーで! これからお肉を焼くの」  手を振り払い、見つけたフライパンをコンロに乗せたのに、またナオキはオレの肩を掴む。 「あーそーぼ! なんでいつもおままごとしてるんだよ。男なんだから、戦いごっこしよう」 「あーとーで! おままごとしたいの!」 「あーそーぼ! ってば!」 「あーとーで!」  小競り合いが始まったのに、優ちゃんは寝ていて全然役に立たなくて、しばらく無言での引っ張ったり、押し返したりが続き、オレがナオキを突き飛ばし、尻もちをついたナオキが涙目で言った。 「お前なんか、慈雨ちゃんだ!」  その瞬間に優ちゃんの目が開いて、寝返りを打つと黒目がちの三白眼でナオキを見た。 「お前、今、なんで『ちゃん』付けした?」 低気圧から噴き出すような低い声と共に起き上がり、ナオキは尻もちをついた姿勢のまま「ひっ」と悲鳴を喉に貼りつかせた。 「待って、待って」  何だか分からないけど、ヤバいことだけは分かった。とにかく優ちゃんの前に立ち、ナオキを睨みつけている顔をペタペタ触って、ぴょんぴょんと飛び跳ねた。 「慈雨は退いてろ」 押しのけられるのを逆らって、優ちゃんの視線を遮り続け、優ちゃんはオレの身体の向こうのナオキを射抜くような目を続ける。  オレは三歳児なりに脳味噌をフル回転させた。  ナオキは焦れて、怒って『ちゃん』付けをした。そうか、怒ってる気持ちを表すときに『ちゃん』をつければいいのか! 「『優ちゃん』! 怒っちゃいけません! めっ!」 両手で優ちゃんの頬をぱちんと挟み、オレは耳の下が痛くなるほど頬を膨らませ、怖い目をして優ちゃんを睨んだ。  優ちゃんは一瞬目を見開き、オレから目を逸らして下唇を軽く噛みながら俯く。 「はい。ごめんなさい」  優ちゃんは笑いを堪えて俯いたのだけれど、オレは優ちゃんの身体の震え方を泣いているのだと勘違いし、とんでもないことをしたと怖くなり、好きな人を泣かせたと思って悲しくなって、一気に涙が噴き出し、おしっこまで噴き出してびしょびしょになった。足元には四方八方から雑巾が投げ込まれ、オレはその瞬間の姿勢のまま優ちゃんに両脇の下から持ち上げられ、上下に軽く振って水気を切られてから、トイレへ運び出された。  隅っこにあるおもらし用のシャワーで顔も身体も洗ってもらい、バスタオルで身体を拭かれる間も、オレは言い募っていた。 「怒っちゃダメ! 怖いのはヤ! リコンする!」 「わかった、わかった。俺が悪かった。リコンはしたくない」  オレの顔を拭くふりでバスタオルで視線を遮る合間に、優ちゃんはまだ笑っていたけれど、幼稚園に置いてある着替え一式が誰かの手によって届けられ、パンツから順番に着せられて、ポロシャツのボタンを留めてくれたら、真面目な顔でオレを見た。 「ごめんなさい、もう他人を威嚇するようなお行儀の悪いことはしません。リコンはしなくていいか?」 「いい。リコンはなし」 オレが頷くと、優ちゃんに抱き上げられ、耳に触れる近さで優ちゃんの唇が動いた。 「そういえば、俺たちはいつ結婚したんだっけ?」 「子どもは結婚できないから、してない」 「なるほど。でもリコンはできるのか?」 「怒る人、怒鳴る人とはさっさとリコン!」 弥生の言葉をそのまま優ちゃんに繰り返して教えてあげた。 「なるほど」  オレが理解しないまま話す言葉を、優ちゃんがどこまで理解したのか分からないけど、優ちゃんは左右の口角を上げ、目を細めて笑った。 「なぁ慈雨、俺のことはこれからも『優ちゃん』って呼んでくれないか?」 「いいけど、なんで?」 「んー。マゾっけ強いからかな?」 「まぞっけってなに?」 「あと十二年経ったら教えてやるよ」 その言葉はなせが少しくすぐったくて、オレは首を竦めた。

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