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宮廷楽師

 幼稚園の遊戯室には、白いロココ調のグランドピアノが置いてあった。  盛り上がった白いモールの曲線に金色の彩色が施され、本体も椅子も猫足で、ペダルと本体をつなぐペダルケースは竪琴をかたどっていて、ペダルはもちろん金色に光っていて、オレにとっては『素敵!』なピアノだった。  オレはそのピアノをお城だと思って、お人形さんと一緒に響板の下へ潜り込んだ。 「ぶどう(・・・)会の時間です。お姫様、お召し換えなさいませ」 背中のマジックテープを剥がし、赤いワンピースを脱がせ、緑色のドレスに身体を入れる。 「慈雨はドレスを着ないのか?」 ピアノの下でオレの隣に寝転がっていた優ちゃんが、オレのくせっ毛を自分の人差し指に巻きつけながら訊く。 「オレはお付きの人がいい」 「どうして?」 「お姫様は自分では何もできないもん。お買い物もお料理もお着替えもできない。つまんない」 「ふうん。ま、オードリー・ヘップバーンの時代から、お姫様は『私、こんな生活にはもう飽き飽き!』って脱走してるのに、今でも似たようなアニメや映画があるってことは、お姫様の労働環境は改善されてないんだろうな。可哀想に」 優ちゃんはお姫様のセリフだけ裏声を出し、ふわふわと欠伸をした。 「うん。だからオレはお付きの人!」 「なるほど。でも、慈雨はドレスを着て舞踏会で踊らないのか?」 「一緒について行って踊るけど、王子様と踊るのはヤ。だって王子様は、もっと何もできないもん。最後に出てきてお姫様を抱っこするだけ」 オレは唇をぷっと尖らせながら主張を述べつつ、袖を通すためにお人形さんの腕をありえない方向へ強引に曲げた。 「苦労するのはお姫様ばかり、王子様は最後に美味しいところをかっさらっていくと言われれば、そう見えるな。……お召し換えはこうするといい」 両腕を斜め前に伸ばして左右同時に手を通して着せる方法を優ちゃんが教えてくれた。  オレは素直に感動して優ちゃんを見た。 「素敵! 優ちゃんは王子様じゃないね!」 「それは褒め言葉だな。俺は王子様じゃないとしたら、宮廷楽師になろうか」  優ちゃんはピアノの下から這い出すと、オレに右手を差し出してくれた。  オレはキューテーガクシを知らなかったけど、差し出された手は大きく、優ちゃんが左の口角を上げる姿はかっこよくて、王子様よりずっとずっと素敵な職業なんだろうと思った。  優ちゃんはピアノの前に体操マットを敷いて客席を作ると、ピアノの大屋根と鍵盤の蓋を開け、右手の四本の指を揃えると、その指の甲で低音から高音まで一気に音階を駆け上がり、猛スピードで何かを弾いた。それから丁寧にいくつかの音をぽんぽんと押して確かめ、「まあまあ」と評価してベンチタイプの椅子に座る。オレも客席用の体操マットに座って優ちゃんを見上げた。 「宮廷楽師のコンサートの始まりだ。拍手ーっ」 じゃらじゃらとピアノの鍵盤を鳴らす優ちゃんと一緒に、オレはぱちぱちと拍手した。  優ちゃんはオレも知っている『きらきら星』を演奏し始めた。おなじみのドド、ソソ、ララ、ソソ、ファファ、ミミ、レレ、ド、だけで終わらず、その音の間に華やかな音が加わって、もっとキラキラになった。 「天の川みたい」  鍵盤の上をたくさん手が動き始めて、オレは我慢できずに立ち上がり、体操マットの周りを両手を広げてくるくる踊った。優ちゃんは鍵盤から目を離さないまま笑って、さらに嬉しそうに弾き続けた。 「慈雨、そこに立っていたら見えないよ」 いつの間にかやって来てお行儀よく体操マットの上に座っていた友だちに注意されたけれど、オレはキューテーガクシの演奏に合わせてダンスを踊りたかった。 「慈雨、反対側に立てばいい」 と、優ちゃんが弾きながら声だけで教えてくれて、オレは鍵盤の低音部側に踊りながら移動して、優ちゃんの軽やかに動く手を見た。  目にも止まらない速さって言葉だけは知っていたけど、このときの優ちゃんの指を見て、 (ほんとうに、目にも止まらない速さだ) と、初めてその言葉を体得したのを覚えている。  モーツァルト作曲の『きらきら星変奏曲』はちょっと長くて12変奏まであるから、途中にはきらきら星のメロディからかけ離れたように聞こえるものもある。  オレはそのあたりで踊るのに飽きて、それより本当にピアノを弾くのが大好きっていうのがわかる顔が気に入って、鍵盤だけじゃなくて、優ちゃんの顔もたくさんのぞき込んだ。  優ちゃんはオレがあんまり顔をのぞき込むものだから、ちょっと照れて口元が自然に緩んでしまうのをがんばって引き締めながら、最後までキラキラした演奏を続けていた。  弾き終わって鍵盤から手を離すと、体操マットの上にお行儀よく座っていた先生と子どもたちは拍手をして、優ちゃんは立ち上がって本物のピアニストみたいにピアノに手を掛けて、背筋を伸ばして頭を下げた。  オレは拍手をするタイミングを逃して、頭を下げてから椅子に座り直した優ちゃんに、言葉で 「とっても上手だね」 と、心を込めて言った。優ちゃんは嬉しそうに破顔してオレの頭をポンポンと撫でる。ピアノ椅子に座っている優ちゃんの膝の上に抱きあげられて、オレはキューテーガクシを素敵だと思って抱きついた。  のちに映画『アマデウス』でモーツァルトのはじけっぷりを観て、オレの中の宮廷楽師のイメージは転覆したのだけれど、同時に優ちゃんが宮廷楽師を名乗るのも大きく外れてはいなかったなと思う。今だってオレがコーヒーを飲んでいるテーブルの下でモーツァルトの楽譜を笠地蔵のように頭に被り、「あー」とか「うー」とか呻き声をあげてはゴロゴロと転がっているから。 「うわっ、何?」 不意に足首を掴まれ、オレはテーブルの下を覗き込んだ。優ちゃんはゾンビみたいな顔をしていた。 「なあ、慈雨。一緒に風呂に入ろう。もうこんな狭い空間にいてはだめだ。モーツァルトの不倫に取りこまれる」 「不倫?」 「この不穏な始まり、穏やかさと甘ったるい音楽の応答、迫り来る緊張、激しい興奮、突然の幕切れ。アインシュタインじゃなくたって、献呈されたトラットナー夫人との間に、後世に残せない個人的な事情があったのではと憶測する」 そう言う優ちゃんが頭の上に笠のように被っている楽譜は『ピアノソナタ第14番 ハ短調 K. 457』だった。 「証拠もないのに不倫って感じるところまで追い込まれてる優ちゃんがヤバいよ」 オレは仕方なく優ちゃんをテーブルの下から引きずり出し、そのままサスペンスドラマの犯人が遺体を運ぶようにずるずるとバスルームまで引きずっていった。

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