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4LDK南向きオートロック公園隣接駅至近商店街まで徒歩8分(5)
南向きのベランダの向こうには大きな公園が広がり、子どもたちのはしゃぐ声が風に乗って運ばれてくる。
優ちゃんはその歓声に薄く目を開け、オレを抱き寄せると大きく深呼吸しながら再び目を閉じ、すぐに身体の力が抜けた。
子ども嫌いという程ではないんだけど、優ちゃんはオレ以外のガキは話が通じないから面倒くさいと思っている。オレは優ちゃんと出会った子ども時代は楽しい思い出ばかりで、優ちゃんがしてくれたように、オレも小さい子に接したくて幼児教育学部へ行った。
だから保育園の先生をしていたときはとても楽しかった。今は優ちゃんの秘書に徹すると決めて、これはこれでやりがいのある仕事だけど、またいつか子どもと関わる仕事もできたらいいなぁと思っている。
「ひまわり組さん、元気かなぁ」
卒園式の日の子どもたちの誇らしげな姿を思い出したらほんの少し涙が出た。ランドセル姿を見せに来てくれる前にオレは退職してしまった。見たかったな。
そんな未練を優ちゃんの肩に擦りつけ、ホットミルクのような優しく甘い匂いを胸いっぱいに吸い込んで、オレも眠りに落ちた。
「そろそろ支度して出掛けるか」
そう言われてマンションの外へ出たときには、空は茜色に染まっていた。
マンションを出ると左へ行くとすぐに踏切があり、銀色に光る四本のレールを跨いでそのまま真っ直ぐ歩く。スーパーマーケットの前の横断歩道を渡り、動物病院とアパートの間の道を歩いて行くと、外灯だけが頼りの静かな住宅街から突然視界が開けて、スズラン型の電灯が並ぶ商店街が見えた。
その商店街に出る一歩手前に行きつけのもんじゃ焼き屋さんがある。縄のれんを掻き分けて引き戸を開けると、霧状になった油と演歌が同時に流れ出てくる。
「ごきげんよう」
優ちゃんが声を掛けると、毎晩カーラーで巻いているというパーマヘアの女将が相好を崩し、予約席の札を取っ払って一番奥のテーブル席へ案内してくれた。
「あんた、しっかり顔を見せなさい!」
赤いエプロンをした女将は、優ちゃんの顔を両手でぱちんと挟んで、さらにお医者さんのように下まぶたを親指で押し下げて色を確認し、ニッコリ笑う。
「よしっ、今日も元気だ!」
優ちゃんの頬をぺちぺち叩いて笑うと、ようやくメニューを見せてくれた。メニューを見ても見なくても、オレたちが頼むものは決まっている。
「ウーロン茶、ジョッキでふたつ。あと、優一郎サラダを頼める?」
優ちゃんが訊くと、女将はもちろんと頷いた。
「お好み焼きは豚玉と海鮮ミックス天。もんじゃは明太子もちチーズ」
「もんじゃは、ベビースター入りにしてください!」
オレは追加のベビースターを頼んで満足した。
オーダーを終える前にテーブルにはウーロン茶が運ばれてきて、オレたちは「お疲れ様です」とジョッキをぶつけあう。
店の中は油で茶色くコーディングされた演歌歌手のポスターが並んでいるが、いつも一枚だけ優ちゃんのポスターを貼ってくれている。今は、復帰第一弾アルバム『One more time』のポスターだ。
サウンド・オブ・ミュージックみたいに美しい草原で、燕尾服を着た優ちゃんがのびやかにグランドピアノを弾いている。
この写真は実際の風景で、見晴らしのいい真夏のスキー場、上級者コースのスタート地点で撮影した。
人間はリフトで上がり、グランドピアノは足とペダルをバラして軽トラックで運んで、さらに人力でプラスチックダンボールと毛布を使って滑らせ、押したり引っ張りあげたりして設置して、優ちゃんは燕尾服を着込んで強い日差しを浴びながら、全く調律されていないピアノを楽しそうに弾いた。
「すごい昔の出来事みたい」
頬杖をついてポスターを眺める。そこにはツアーの日程も書いてあるし、追加公演のシールも貼ってある。
「帰国してからツアーが終わるまで突っ走ってきたからな。慈雨様のおかげです」
この話題になると、優ちゃんはいつも手はお膝で深く頭を下げてくれる。
「いえいえ、こちらこそお世話になりました」
一緒に頭を下げていたところへ女将がやって来た。
「はい、優一郎サラダ。お待ちどおさま」
『優一郎サラダ』はどんぶり一杯の蒸し野菜で、野菜の種類はその日の仕入れ次第、女将特製の胡麻ドレッシングを掛けて食べる。
「お前、明日の予定は?」
優ちゃんは、オレの口の端についた胡麻ドレッシングを指の腹で拭い取って自分の口でしゃぶる。
「何もないよ。ツアー終わったばかりだし、少しはのんびりしなきゃ」
「いいなぁ、お前」
「何をうらやましがってるんだよ。自分だって休みだろ」
「モーツァルトの不倫騒動に巻き込まれてるからなぁ、俺は」
「でもさ、モーツァルトは本当に不倫したの?」
このセリフが自分の首を絞めることはわかってる。優ちゃんは目を輝かせて割り箸を振り上げた。
「だってお前、こんなにドラマチックでドラスチックで、いくらモーツァルトでも不安定すぎるだろう? 繰り返されるユニゾンに誤魔化されてるかも知れないが、全然一貫性がない。胸を張って堂々と何かを物申すのかと思えば、突然一人で思い出し笑いを始めて、泣いたり、怒ったり。この曲を献呈したマリア・テレジアは41歳も年上の男と結婚して、年齢の近いモーツァルトが毎月12回も隣でピアノを教えてるんだぞ。何もないって思うほうが不自然だ!」
「なるほど。さすが優ちゃん! そうかも知れないね」
オレがニッコリ笑ったタイミングで運ばれてきたお好み焼きを天板に広げ、左利きの優ちゃんと、右利きのオレで鏡合わせにコテを持ってお好み焼きの下に差し入れ、「せーのっ」でひっくり返す。
豚玉にはソースを塗り、海鮮ミックス天は塩を振りかけて焼くのが優ちゃんの好みだ。
それぞれ四等分に切り分けて、半分ずつ皿に取って割り箸で食べる。あっという間に食べる。豚肉のカリカリしたところが美味しい。
男ふたりにとってお好み焼き2枚なんて前菜で、すぐにもんじゃ焼きの生地を鉄板に広げた。
最初は具材だけをすくい上げて鉄板に広げ、ドーナツ状に堤防を作り、その真ん中へ汁を流し込んで、とろみがつき始めたら、好みでソースを回しかけて、全部を鉄板の上でコテでかき混ぜる。
「オレ、おせんべ作ろうっと」
とろみのついた生地を鉄板に薄く広げてパリパリに焼いた『おせんべい』をスプーンサイズのヘラでこそげて食べるのが好きだ。
優ちゃんはヘラで生地をかき寄せ、少しだけ鉄板に押しつけて、ヘラに焼きつけてから口へ運ぶ。
「もんじゃって、どうしてこんなに美味いんだろうなぁ!」
ヘラを握りしめ、油で顔をてかてかさせて、優ちゃんは嬉しそうだ。
かつては『あなたの宮廷楽師、青木優一郎』なんてキャッチフレーズで非の打ち所のない王子様として売り出されてたこともあるのに、ねとねとのベビースターラーメン入りもんじゃで喜んでる姿は庶民的過ぎて微笑ましい。
オレも一緒に「美味しいねぇ」とベビースターの部分を掻き寄せていたら、優ちゃんの黒いスマホが震えた。
優ちゃんは表示された画面を見るだけで無視を決め込んだので、仕方なくオレがスマホを持って店の外へ出る。
「ごきげんよう、慈雨です」
「あら、あたしったらまた間違い電話しちゃったかしらぁ?」
優ちゃんのママは、素面でも酔っ払ってるみたいに機嫌よく楽しそうに話す。
「優ちゃんの番号で合ってるよ。今、もんじゃを食べるのに忙しいみたい」
「あらぁ! ちょうどいいわ。デザートは食べないでウチにいらっしゃい。お歳暮におリンゴをたーっくさん頂いちゃったのぉ!」
ママの言葉を伝えたのに、優ちゃんは
「あんず巻、あんこ付きで!」
とオーダーして、餃子の皮くらいの生地を六枚焼いて、
「オレは遠慮しとく」
と言うと、焼きあがった生地の上に6等分してあんこを乗せて、その上にあんずの甘煮を置いて生地で包み、むしゃむしゃ食べた。
甘酸っぱいものも好きなんだから、素直に実家でリンゴを食べればいいのになぁ。
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