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快人 11

次の日、熱が下がった俺は、学校を終えると兄ちゃんの邸に向かった。 学校に行ってみて一つ驚いた事がある。 あの統計学の佐野が、突然学校を辞めたというのだ。 今後の講義は他の統計学の講師に引き継がれたのだが、恐る恐る単位の事を聞いてみると、俺のレポートの成績もテストの評価も、そう悪いものではなかったらしく、今後も出席日数さえ問題なければ単位は難なく与えられるということだった。 佐野の奴、騙してやがったな…と思わない訳じゃなかったけど、でも、このタイミングで突然辞めた事の方が気になった。 嫌でもあの変態を連想してしまう。電話であいつ、佐野に「報復する」って言ってたよな…。これがその「報復」の結果だとしたら、あの変態何者だよ…。 考え事をしている内に兄ちゃんの邸に着いて門の所でチャイムを鳴らすと、吉田さんが応答した。 名前を告げて門を抜けるといつもの様に吉田さんが玄関のドアを開けて待っていてくれた。でも、その顔は少し曇っている様に見えた。 「奏人さん、最近ちょっと調子悪いみたいで…」 「えっ、何かあったの?」 「分かりません。お食事も下りて来ないから殆ど部屋で食べてるんです。あ、そうだわ。この間快人さんが来た日を最後に下りていらしてないわ」 この前はすごく元気そうだったのに、どうしたんだろう…。いつも兄ちゃんとは2日に1回くらいは昼休みとかに電話してたけど、この4日間は電話できかったな…。ちゃんとかけてれば兄ちゃんの変化にもっと早く気づけたかもしれないのに。 ともかく早く兄ちゃんの顔が見たくて、足早に部屋に向かった。 兄ちゃんの部屋の目の前に着いて、ノックしたけど…返事はない。 「兄ちゃん?俺…快人だけど…」 「快人?」 呼び掛けてみるとすぐに反応があって、ドアが開いた。 兄ちゃんは、少し痩せた様に見えたけど、なんか楽しそうに笑っていた。 「快人、早く入れよ!」 「う、うん」 兄ちゃんに腕を引かれて、部屋に入ると、いつもきれい好きの兄ちゃんの部屋は少し散らかっていた。 腕を引かれたままベッドまで連れていかれて、そのまま強い力で押されて仰向けに倒された。 「兄ちゃん?」 「快人は可愛いね。可愛い可愛い俺の弟だ」 兄ちゃんが幸せそうにニコニコ笑って、俺を上から見下ろした。 俺はなんだか少しぞっとして、そうしてしまった自分にショックを受けていた。相手は兄ちゃんだっていうのに…。 「快人、キスしようか」 「え…なんで?」 「何も変な意味はない。親愛のキスだよ。いいだろ?」 ニコニコ無邪気に笑ってそう言う兄ちゃんを断れなくて黙っていたら、兄ちゃんの唇がそっと触れて、すぐに離れた。 「快人は美しいね。傷ひとつない。いつまでだって眺めていたいな」 美しいなんて形容詞、俺には似合わない。それを言うなら兄ちゃんの方が繊細なガラス細工みたいで綺麗だと思う。 でも、兄ちゃんは言葉の通り俺をじっと見つめていて、なんだか居心地が悪い。その視線から逃れるようにぎこちなく身体を起こしてベッドに座ると、兄ちゃんも隣に腰かけた。 「に、兄ちゃん、調子悪いんだって?吉田さんが心配してたよ」 「別に。ただちょっと眠くて、下りていくのが面倒なだけ。それより快人の方こそ、声が少し変だ。風邪引いてるのか?」 「うん昨日から。でももう大分いいよ」 「夏だからって、身体冷やしたんじゃないか?」 「はは、そうかも」 「大事にしろよ。快人は兄ちゃんの大切な可愛い弟なんだから」 「ありがと」 兄ちゃんは終始ニコニコしてて、確かに調子が悪いという感じじゃない。でも、明るすぎて、元気すぎる。 それの何が悪いのかと言われればそれまでだけど、なんか違和感があった。 「快人最近電話くれなかったけど、何かあったのか?」 「いや…特に何も」 変態の事は兄ちゃんには一切話してない。心配性で心の治療中な兄ちゃんに俺の事まで心配させたくない。だから、この1週間の間に起こった佐野の事も、変態の事も、おっさんの事も黙っていることにした。 「そうか。快人からの電話がないと寂しいよ」 「ごめん。来週からはこれまで通り昼休みにかけるよ」 夜は、俺が忙しい事が多いし、兄ちゃんの睡眠を邪魔したくないから、殆どかけないことにしていた。 「よかった。俺、快人からの電話が今一番の楽しみだから」 兄ちゃん、俺を支えにしてくれてるんだ。でも、兄ちゃんには友達も多かった筈なのに、そう言えば訪ねて来てる様子も、連絡取り合ってる様子もないな。兄ちゃんみたいな人気者が突然学校を休むようになったら、心配してる人もいるだろうに。 「そう言えば快人、最近少し背が伸びたんじゃないか?」 「え?そうかな?自分じゃわからないけど」 「伸びたよ。俺も、大学に入ってから突然伸びたから、きっと快人もこれからどんどん伸びるよ」 「だといいな」 そう言えば兄ちゃんは今でこそ背が高い…というか、俺から見たら高いだけで、世間一般的にはたぶん普通くらいだけど、昔は俺と同じで低い方だった。今くらいまで伸びたのはもう数年前の事なので、昔は低かった事なんて忘れてしまっていた。 俺の中ではこの身長の兄ちゃんが兄ちゃんになってた。 人間の記憶って簡単に塗り替えられるんだなぁ。 そんな事を考えていたら、ドアがノックされて、すぐに「奏人」と兄ちゃんを呼ぶ声がした。 返事を待たずにドアを開けたのは案の定聡司さんだった。 「奏人、勉強の時間だよ…って、快人くん来てたんだ」 「あ、はい。…勉強?」 「そうなんだ。暫く仕事が落ち着いてるから、学校に行かない奏人に勉強でも教えようと思ってね」 「そうですか!」 それは兄ちゃんにとってすごくいいと思う。1日中部屋に閉じ籠って何もしないんじゃあ、人間腐ってしまう。 「聡司さん、今日はいいだろ?快人が来てるんだから、快人と過ごさせてよ」 「でも、そうやってサボり癖がついたらいけないからね。そうだな…じゃあ今日は快人くんも一緒に勉強するっていうのはどうだい?」 勉強はちょっと…と思ったけど、兄ちゃんがその方がいいなら聡司さんの誘いに乗る気はあった。 あったのに、意外な事に兄ちゃんにきっぱり帰る様言われてしまった。快人がいると集中できないからと。 昔から兄ちゃんは頭がよかったし、夏休みとかの宿題なんかも集中し出すと周りが見えなくなるくらい熱中する人だったから、やるときはちゃんとやりたいのかもしれない。俺は兄ちゃんと違ってすぐ集中力がなくなって別の事をやりだすから、小さい頃はよく兄ちゃんに怒られたっけ。 と言う訳でまだ19時だけど家に帰る事になった。 少しウキウキするのは、誠が今日バイト休みだからだ。 誠はもう飯食ったかな? 食ってなかったら、今日は俺が作ってもいいな。俺だって役に立つ所見せないとな。 「ただい…ま」 「あ快人、おかえり。体調どう?」 玄関を開けたら、誠と、あと知らない女の子がいて固まる。この展開は予想外だ。

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