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奏人 7
けじめをつけるために、桐谷のアパートの荷物を引き上げる事に決めた。
あいつに会って話をするとまた心が乱されるので、あいつがいないであろう日を狙って行ったのに、整理をしている最中に桐谷は帰ってきた。
「快人…。出て行くのか…」
俺の様子を見た桐谷は、すごく悲しそうな顔で言った。
「世話になったな」
何の感情も込めないで返すと、すぐに聞かれた。
「楢橋さんと付き合ってるのか?」
「そうだとしたら?」
「…快人は、今幸せなの?」
「ああ。凄く幸せだね」
俺は幸せだ。快人も、快人の物も手に入れて、快人になれて、幸せなんだ。
「そうか。……それならいい」
「随分諦めがいいな。お前は結局その程度の気持ちしかなかったんだ。大して悲しくもないくせに、悲しそうな顔するなよ」
「快人…」
そうだ。こいつの想いなんて大したことないんだから、気にする必要も、嫉妬することもないんだ。
教科書や資料等、大学で使う物だけまとめて鞄に詰めた。
「後の物は悪いけど捨てて貰えるか?必要ないから」
桐谷は何も言わなかったけど、そのまま呆然とする桐谷の前を横切って玄関に向かった。
「あ……快人!ちょっと待って!」
振り返ると、薄青色の、細長い厚紙を突き出された。
「これは持って行けよ。お前の大事なものだ」
「なんだこれ?」
「七夕の短冊だよ。一緒に書いたろ。忘れたのか?」
受け取って見ると、そこには――。
『兄ちゃんが元気になります様に 快人』
純粋で穢れない快人の願いが書かれていた。
騙されているとも知らず、俺が何を考えているのかも知らず……。
「快人?」
「……ああ、ごめん。帰るよ」
俺の様子を訝しんだ桐谷にそう告げて、アパートを出た。
俺はとんでもない男だ。
純粋で素直な弟を騙して操って、挙げ句の果てに乗っ取った。
自分が何をしでかしたのか、そんなことは前から理解していたけれど、その所業がこれまで以上に醜くて残酷に思えて、短冊を鞄の奥底にしまった。
*
夏休みは、まるで恋人みたいに殆ど毎日正一と過ごした。
正一が仕事に行くのを見送り、だらだらと1日を過ごして、正一が帰って来たら二人で晩御飯を作ったり、外食したり。
夜は愛を囁かれながら抱かれて、幸せだと心から思った。
一方であの短冊を見てから、快人には全く会いに行かなくなった。
どうせ行ったって眠ってるだけだと言い訳をして、でもその実は可哀想な快人を見たくないからだ。
自分がした残酷な仕打ちを、思い知らされたくなかった。
せめて夏休みの間だけ…それだけでも自分が悪魔であることを忘れて、幸せに浸っていたかった。
*
今日から大学の後期の授業が始まる。
現実逃避はそろそろおしまいにしなければならない。
今日は本当に久しぶりだが、快人に会いに行こうと決めていた。
眠っているだけだとしても、俺の愛しい存在だ。何よりもそうなることを望み、強いているのは俺自身なのだから、いつまでも見てみないフリは許されない。
「快人」
校舎の玄関をくぐってまだ誰にも囲まれる前に話しかけてきたのは、取り巻きの内の一人の…確か稲葉という男だ。
「ちょっと、こっち」
連れてこられたのは、人気のない廊下だ。この先には進路相談室とか、あまり普段使わない教室しかないから、殆ど人通りがない。
「快人、お前俺より先にやってたんだ」
稲葉はニヤニヤと笑った。
「やってたって、何を?」
「売り専だよ、ウリセン」
「は?」
こいつは何を言っているんだろう。
「とぼけるなよ。お前人気ナンバーワンなんだろ?俺も夏休みから同じ店で働いてんだ。快人は待ち部屋には全然来ないから、俺の事知らなかっただろうけど、店のファイルでお前の事見たぜ。同じ事してるドーリョーなんだから、隠す必要ないって」
店?同僚?売り専?一体何の事だ?
「しかも、裏の経営者みたいな人のお気に入りなんだろ?源氏名もその人から貰ったとかなんとか。…頼む!俺も売れっ子になれる様その人に口聞きしてくれよ!このままじゃ全然稼げねえし、借金返せねえんだよ」
回らない頭でも、徐々に何を言われているのか理解して、背筋が凍る思いと、沸騰する様な怒りを同時に感じた。
売り専っていうのは、詳しくは知らないが、こいつの話している内容はたぶんいかがわしいサービスを提供する店の事だろう。
聡司さん、そんな所に快人を売ってたのか…!
稲葉が「借金取りが毎晩来るんだ」とか何とか涙声で言っていたが、どうでも良すぎる。その店の名前と所在を確認すると、その場を駆け出した。
聡司さんは、所謂インテリヤクザで、最近少し地位が上がったらしく、この辺りのシマを任される様になった。以前はここから少し離れた所を担当していた様で、月に1~2回程度しか帰ってこなかったが、偉くなったせいもあってか、殆ど家にいる様になった。
そのせいで1年前の俺は毎晩聡司さんの相手をしなければならなくなって快人のストーカーもできなくなり、自分の時間はなくなってしまった。よくドラッグも使われ、それが残ったまま快人と接した事も幾度となくあった。
あの人は、知的に見せる為か、カタギに化ける為か、自分を「僕」と呼んだり、しゃべり方もその世界の人間にしては丁寧に取り繕っているが、所詮は世間のはみ出しものだ。
道徳観念なんて完全に欠如しているし、常識や良心なんて全く持ち合わせていない。
組織の為ならどんな冷酷な事も非道な事も出来てしまう様な奴だ。
それを十分分かっていながら、快人を聡司さんに預けたのは俺だ。
俺は聡司さんと同じくらい冷酷で非道だ。当時の俺は、確かに快人が酷い目に遭えばいいと思っていたのだから…。
大学を飛び出して向かった先は邸だ。
この邸の持ち主である母親は、聡司さんの本当の顔も、当然俺たちの関係も何も知らない。
母親自身が俺達に興味がないのだ。
聡司さんと結婚してからも大好きな男遊びはやめられず、毎日のように男遊びの為に出歩いているのだから。
聡司さんも、そもそも女である母親には何の興味もない様で、仮面夫婦もここまでくればいっそ清々しいくらい二人は希薄な関係だ。
邸に着いた時、時刻はまだ朝の10時半だった。
快人のいる部屋に足早に向かい、ドアを開けたが、そこはやはり蛻の殻だった。
すぐに聡司さんの部屋に向かい、ノックもしないで部屋に入ると、クローゼットの前で聡司さんが少し驚いた様な表情を浮かべた。
「快人はどこだ!」
「なんだ奏人か。随分久しぶりじゃないか。もう快人の事は忘れたのかと思ってた」
「忘れる訳ないだろ!お前、快人を売ってるのか!?」
「なんの事?」
「とぼけるなよ!新宿のGrayって店で、快人を見た奴がいるんだ!」
「……そうか。バレちゃったんなら、しょうがないね」
聡司さんの表情は、少しも変わらなかった。余裕の笑みを張り付けて、俺の事を面白そうに眺めている。
「ふざけるなよ!そんな事、許した覚えはない!」
「許す?どうして僕が奏人に許しを貰わなきゃならないんだ?」
「快人は俺の物だ!俺はあんたに協力を依頼したけど、勝手な事していいなんて言ってない!」
聡司さんは俺を小バカにするみたいにふっと笑って、クローゼットの中からスーツを取り出した。
「奏人。お前は快人になった。僕は快人を自由にする権利を得た。それでいいじゃないか」
「いい訳ないだろ!開き直るなよ!」
聡司さんの暖簾に腕押しな態度にイラついて、着ようとしていたスーツをその手から払い落としたら、
「…ッが」
俺はいきなり首を圧迫されて、壁に押し付けられた。
聡司さんの手が俺の喉元を掴んでグイグイ力を入れてくる。
「調子に乗るなよ奏人。何で僕がお前の命令なんて聞かなきゃならないんだ?快人はもう僕の物だ。そうだろう?」
「ぐ……ッ」
聡司さんの手に更に力が加わった。
苦しい…!
「お前は快人としてこれからの人生を楽しむといい」
「げッ……がハッ…」
ようやく手を離されて、一気に入ってきた酸素に噎せて壁伝いに蹲った。
「うちの会があの手の店に進出したのは今回が初めてなんだ。任された僕の出世がかかってるからねえ。ポシャる訳にはいかない。快人には、まだまだ頑張って貰わないと」
上から俺を見下ろしながら饒舌に語る聡司さんは、一見柔和にも見える笑みを浮かべていて、人の首を締めた直後の人間がする表情じゃない。
「それに、うちの会長が大層快人を気に入ってくれていてね。接待の度に快人を指名してくれるんだ。辞めさせられる筈がないだろ?それでもどうしても快人を助けたいなら…」
聡司さんの唇が不気味に弧を描いた。
「奏人、お前が成り代わって身体を売ればいい。僕はどっちでも構わない」
聡司さんの楽しそうな顔は、本当に悪魔の様だと思った。
初めからこの人はこうするつもりだったのか。
俺が「計画」を話した時から。
いや、もしかしたら、俺が「計画」した事すら、聡司さんに操られた結果だったのかもしれない。
今となっては分からない。分からないけれど、聡司さんは、俺が今どう答えるかは確実に知っている。
俺は――――。
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