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快人 3
結局答えは出ないまま数ヵ月が過ぎた。
紺野さんにきちんと返事もできず、誠に真意を尋ねる事もできず、何もかもが中途半端な状態で、俺はこれまでの人生で一番と言うくらい疲れ果てていた。
だから、深く考えもせずにその手を取ってしまったんだろう。
「快人、怖い?」
「いや……」
狭いビジネスホテルのツインルームでベッドに腰掛けて、目の前のベッドからかけられたその言葉に返事をしたけど、俺には現実感ってものが完全に欠如していて、自分のしでかした事の重大さも、どこか他人事の様に感じていた。
「大丈夫だからね。俺がついてる」
目の前に座る兄ちゃんが、俺の両手を包み込んで言った。
時刻は深夜。本当は、店の裏のマンションの部屋で、仕事している筈の時間だ。
今日予約してくれていたお客さんは、どうなっただろう。明日も、明後日も、その次も…。
俺はやっぱり大変な事をしてしまったんじゃないだろうか。
夕方寝入って約3時間後に、兄ちゃんに起こされた。起き抜けに1年以上ぷりに兄ちゃんの顔が目に飛び込んできて、一瞬鏡を見ているのかと錯覚した。でも、明らかに俺が浮かべていない表情を――笑顔を浮かべていたから、結構すぐに兄ちゃんだって気づいた。
俺は少しパニック状態だったと思う。
元気なのかとか、どうしてたのかとか、沢山質問して、でも、兄ちゃんはどれにもちゃんと答えないで、俺に言った。
「快人、逃げよう」
俺は色んな物から逃げたくて、気づいたら兄ちゃんの手を取っていた。
そうして聡司さんや吉田さんの目を掻い潜って邸を出て、タクシーに乗って、あれよあれよと言う間に東京を出て、知らない土地に来て、このビジネスホテルに辿り着いた。
聡司さんは、今きっと血眼になって俺を捜してる。
お客さんにも、店の人にもすごい迷惑をかけてしまってる。
稼いだ1500万円は聡司さんに預けてあるけど、結局3000万円は返せてないない。
このままじゃ兄ちゃんの罪は赦されない。
「兄ちゃん、やっぱり俺戻るよ」
「何言ってるんだ快人。大丈夫だよ。きっと見つからない」
「でも…」
少し冷静になってきて、とんでもないことをしてしまったと自覚が生まれたら、怖くなってきた。
これまで兄ちゃんの為に働いてきた2年弱が、全くの無駄になってしまう。相手はヤクザだ。きっとこういう裏切りみたいのが一番いけない世界だ。
兄ちゃんが俺と一緒にいたら、どっちが奏人かバレるかもしれない。いや、分からないからって、二人とも制裁を受けるかもしれない。今ならまだ間に合う。魔が差したってちゃんと謝って、これまで通りきちんと仕事すれば、いつかは解放される。
「もうすぐ、たぶん後1年か2年働けばお金は貯まるし、そしたら、兄ちゃんも俺も自由だよ。こんな風に逃げてビクビク怯えながら生活するよりその方がいい」
「快人…聡司さんに何言われたか分からないけど、聡司さんの言ったことは全部嘘だよ。それにお金って幾ら要求されてるか知らないけど、そんなの貯まった所で、何だかんだ文句つけられるか騙されて全部とられて、病気になるまで働かされるか、会長の玩具にされるだけだよ」
「全部嘘って……」
俺には兄ちゃんの後半の言葉は耳に入ってきたけど、ちゃんと頭に入ってこなかった。
「快人は騙されたんだ。本当はあんな所で働く必要なんて少しもなかった」
「そんな…」
兄ちゃんのクスリの話も全部嘘?―――そんなのあんまりだ。
「俺……何を信じればいいのか分からない」
「俺の言うことを信じればいい。俺は嘘はついていないよ。……今はね」
今はって付け加えられた言葉が悲しい。あれも本当ならよかった。俺はやっぱり兄ちゃんにも騙されてたんだ。兄ちゃんにも、聡司さんにも……。
「……目的は何なの…」
「快人を使って成り上がろうとしたんだよ。たぶん、最終的にはまた騙して会長に捧げようとしてたんじゃない?あいつら宗教じみてるから」
がっくりと身体の力が抜けた。俺は一体何をやってたんだろう。
兄ちゃんの目的は何?って本当は聞きたかったけど、聞けなかった。俺は本当に臆病者だ…。
「だから快人が戻る必要はないんだよ。でも、会長に気に入られてるって話だし、あいつらにとって快人はいい金蔓だったろうから、見つかったら連れ戻されると思う」
「兄ちゃん……俺ってなんでこうなんだろう…」
「そこが快人の可愛い所だよ」
聡司さんにも兄ちゃんにも簡単に騙されて、自分の人生の一部を棒に振って、大切な人からも軽蔑されて、もう涙が出るくらい情けなくて不甲斐ない。
「泣かないで快人。これからは兄ちゃんが守ってあげるから…」
俺の右側のベッドのマットレスが沈んだと思ったら、隣からぎゅっと抱き寄せられた。
兄ちゃんの匂いだ。
幼い頃に俺が泣いた時よくそうしてくれたみたいに、頭を優しく撫でてくれた。
兄ちゃんは、俺を憎いって言ったのも、クスリを飲ませたのも、酷い扱いをしたのも全部嘘みたいに優しい。
でも……少しだけ身体を離した兄ちゃんは、俺にキスをした。深いキスを。
こんなキス、普通の兄弟はしない。
俺をそういう意味で愛してるって言ってたのは、嘘じゃないんだ…。
「…っ兄ちゃん……!」
ようやく顔を逸らしてキスから逃れたのに、兄ちゃんの唇は追ってきて、またすぐに塞がれた。
もう俺には何が正しくて何が間違っているのかわからない。
あの店で働くようになってから、いや、違う。もっと前から。兄ちゃんの復讐を始めた時から、自分がされて嫌な事でも、嫌だって感じる心が鈍っていた。快と不快を判断できなくなっている。
俺はもう既に普通じゃないことばかりしてきたんだから、今更兄ちゃんを拒んでどうなる。
もしも俺の望みが叶うのなら、俺は兄ちゃんとは普通の兄弟でいたかった。でも、もうそんな綺麗事言える程俺は綺麗じゃなかった。
「快人、これからは二人きりなんだから、俺と愛し合おうね」
唇を離した兄ちゃんは、そう言って満足そうに笑った。それが兄ちゃんの望む幸せなんだろうか?それなら、俺は―――。
「うん…」
頷いたら兄ちゃんがまた嬉しそうに笑って、俺に覆い被さった。
兄ちゃんは仰向けになった俺の頬や鼻の頭や額にたくさんキスをして、その度に「愛してるよ」って言った。それはまるで兄弟や親子のじゃれあいの様でもあったけど、最後に唇にされたキスはやっぱり深くて、そして、兄ちゃんは俺の服に手をかけた。
兄ちゃんに身体中を愛撫された。兄ちゃんにそうされるのはたぶん初めてじゃないけど、こんなに意識も頭もクリアな今こうされるのは、下は18才上は還暦すぎのおじさんから受けたどの行為よりも嫌悪感があった。
兄ちゃんが気持ち悪い訳でも、行為が特別変態な訳でもないけど、生理的に受け入れ難かった。
「快人、入れるよ」
「兄ちゃん……」
「大丈夫。もう解れてるし、痛くないよ。気持ちよくしてあげるから」
俺の泣きそうな顔を怖がっていると勘違いしたのか、兄ちゃんは俺の頬を優しく撫でながら俺の中に入ってきた。
兄ちゃんの言う通り、身体は痛くないけど、心は痛かった。
俺はこれまでも既に一般的に見たらかなり軽蔑される部類にいたけど、更にもっと汚い所に堕ちた。別に信心深くはないけれど、死んだらきっと地獄に落ちるだろうと思った。
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