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快人 4
それから俺と兄ちゃんはホテルを転々とした。
金は、兄ちゃんが現金でかなりの額を持っていた。
俺は、稼いだ金は全部聡司さんが管理していて元々無一文だったから、金銭面は兄ちゃんに頼りっきりだった。いや、金銭面だけじゃなく、買い出しに出るのも、次の行き先を考えるのも兄ちゃんだ。俺は何も考えずに兄ちゃんについて行くだけ。
この逃亡を初めてから数日間は色んな事を考えた。
聡司さんの言うことが全部嘘だったのなら、他に方法があったのではないかと。でも、それを提案する度に、兄ちゃんに否定される。「あいつらが快人を諦める筈ない」って。兄ちゃんにそう言われると、そうかな…と思ってしまう俺は、こうだから騙されてきたのにその教訓は全然生きてないなと我ながら思う。でも、俺にとって兄ちゃんの言うことはいつも正しくて、絶対だった。
そして、夜は兄ちゃんに抱かれて眠った。
それは文字通り抱き締められて眠るだけの時もあれば、性的な「抱かれる」の時もあった。
兄ちゃんに抱き締められるのは何の嫌悪もない所かこの生活で不安定だった俺の心を癒してくれたけど、性的な接触をされるのはやはり抵抗があった。
でも、もう今更いやだなんて言えない。
セックスの時兄ちゃんは俺に沢山愛してるって言って、すごく幸せそうにしているから。だからいいんだと自分に言い聞かせるのだ。
それでも、毎晩怯えている。
今日の「抱かれる」はどっちなのか…と。
こんな指名手配犯みたいな生活をしてると、人の心は荒んでくる物だ。
俺は考える事を放棄して、これしか方法はなかったんだと言い聞かせて精神の均衡を保つ様になっていった。
それでも気掛かりになっているのは、紺野さんの事だ。勿論他の常連さんにも申し訳ない思いはあったけど、俺の中で特別なのは紺野さんだった。
紺野さんは、俺が突然いなくなったと知って、どう思っているだろう。裏切られたと思っているかもしれない。でも、それで俺の事嫌いになって、忘れてくれてたらいいな。俺は紺野さんに甘えすぎてた。勝手に心の拠り所にしておいて、その恩を何一つ返せなかった。もっと早くちゃんと断っておけばよかったんだ。
誠の事も、気にならないと言えば嘘になるが、頻繁に思い出していたら何から逃げてきたかわからない。だから、敢えて考えないようにした。考えないようにしてる時点で考えてるってことだけど、それには気づかないフリをして。
マスクに帽子に眼鏡をかけた兄ちゃんが、コンビニの袋を下げて帰ってきた。
「兄ちゃんお帰り。いつもごめんな」
「全然。今日は野菜多めのヤツ買ってきた」
「ありがと」
透明なプラスチックの容器に入ったサラダスパゲティを白いプラスチックのスプーンでつつく。
兄ちゃんも、同じものを食べていて、俺と目が合うとどうした?ってにこっと笑った。
「兄ちゃん…さ、大学とか行かなくていいの?逃げるのは俺だけじゃだめかな?」
「そんなのダメだろ。快人がいなくなったら、まず俺のところに探しに来るよ。それに、顔が一緒だからって、代わりにされるかもしれないし」
「そっか…そうだよね。でも、友達とかもできただろうし、……楢橋さんのことも…」
「正一のこと、なんで快人が知ってるの?」
兄ちゃんの眉が顰められて、訝しんでいる。
「あ…誠に、聞いたんだ」
「誠?なんで?桐谷と接触してたのか!?」
兄ちゃんの柳眉がさらに歪んだ。
「接触してたって言っても、ちゃんと大学に通ってる快人として…だったから、大丈夫だよ!」
「どこで会ってたの?」
こうなってからいつも優しかった兄ちゃんが、少し怒ってるみたいで口調に苛立ちが混じっていた。
どうしよう、兄ちゃんを怒らせた。
「店に、客として来てたんだ。でも、あいつ口は固いから、兄ちゃんが扮してる『快人』に変な噂はつかないと思うよ」
だから、もう怒らないで。そう暗に含めて慌てて言ったけど、兄ちゃんの眉は曲がったまま動かなかった。
「あいつやっぱり気に食わない。俺が迫っても全然抱こうとしなかった癖に、快人を金で買うなんて!」
「兄ちゃん、誠が好きだったの…?」
「好きなもんかあんな奴。快人があいつの事好きそうだったから、奪ってやろうと思って迫っただけだよ」
「え……」
何を言っているの?
「快人は、俺だけを愛してればいいから。あんな奴の事は忘れるんだ」
「……兄ちゃんは、なんで俺になろうとしたの…?」
「快人が好きすぎてね、快人のもの全部が欲しかったからだよ。でもね、無理だって分かった。俺は快人みたいなタラシじゃないから、結局みんな俺から離れていったよ。正一も。あいつ一人に絞ってやったのに、途端俺に飽きたみたいに女遊びし出して。別に俺だってあんな奴好きでもなんでもないからいいけどね。俺には快人がいればそれでいい。快人が俺だけを愛してくれればそれで。分かってくれるだろ?」
俺は答えられなかった。
兄ちゃんは、俺になって、俺の物全部奪おうとして、でも無理で、無理だったからこうして俺を連れ出して、今度は俺自身を手に入れようとしてるの?
「兄ちゃん、勝手すぎるよ…。俺は、兄ちゃんと同じ意味じゃなくても、ちゃんと兄ちゃんを愛してたのに…」
兄ちゃんの為なら男と寝たし、兄ちゃんの為だと思ったから身体を売ってたのに。兄ちゃんを愛してたから、兄ちゃんが大事だったから。
なのに、兄ちゃんは……。
「快人、ごめんな。兄ちゃんが悪かったよ。兄ちゃんが勝手だった。赦してくれ」
そう言いながら兄ちゃんはまた俺の唇にキスをした。まるで何かを誤魔化すみたいに。
「…っ、兄ちゃんやめて」
兄ちゃんの舌が唇を割って入る前に顔を背けた。
「快人、何で嫌がるの?快人だって、俺を愛してるって言っただろ?」
「俺は、こういう意味じゃない。兄ちゃんとこういうこと、したくねえよ」
「へぇ。誰にでも身体売ってたのに、今更そんなこと言うんだ。昨夜だって、俺のアレを美味しそうに銜えてよがってたのに?」
「俺はっ…それだって兄ちゃんの為だと思ったから!」
兄ちゃんから浴びせられた酷い言葉が頭の中をぐるぐる回る。俺は、兄ちゃんの為だと思って嫌なことも耐えてきたのに、俺って一体何をしてたんだろう。
「じゃあ、俺の為に大人しく俺の言うことを聞いて」
「もうやめる!」
伸びてきた兄ちゃんの手を無意識に弾いた。
俺は生まれて初めて兄ちゃんに逆らった。いつも正しくて、俺の目標でもあった兄ちゃんに。
兄ちゃんの目が凄く冷たく俺を見たけど、もうこれ以上自分を犠牲にするつもりはなかった。
「兄ちゃんとこういう事するのは、もうやめる。でも、聡司さんに騙されたのは俺だから、それは俺が責任をとるよ。俺、帰る」
一気に捲し立てたら、兄ちゃんに腕を取られた。
「帰る?快人は、俺に愛されるよりも、知らないオッサンどもに抱かれる方がいいって言うのか?」
「……。兄ちゃんには、俺はあげられないけど、『快人』をあげるよ。これまで通り大学にも通えばいい」
「待てよ快人!」
振り払った兄ちゃんの手がまた伸びてきたけど、俺はそれを弾いた。
「待たない。兄ちゃんは、俺を愛してる訳じゃない。兄ちゃんが愛してるのは自分自身だけだ」
兄ちゃんの表情も、身体もピタリと固まって、それ以上俺を追っては来なかった。
ホテルを出ると、すぐ目の前に泊まっていたタクシーに飛び乗る。
「新宿まで」って言ったら、運転手が嫌な顔をして俺を値踏みするみたいにジロジロ見たから、金はあるからって伝えた。
まだ疑わしい目を向けられたから、現金とかカード見せろとか言われたらどうしようと考えてる内に諦めた運転手が前に向き直って、車は発進した。
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