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快人 5
「戻ってきてくれてよかったよ」
店長から俺が戻ってきたのを聞いた聡司さんは飛んでやってきた。
「ごめんなさい」
初めて入った店内の控え室は人払いされているのか、他のボーイはまた別の部屋にいるのかわからないが誰もいなくて、俺は聡司さんが来るのを粗末なパイプ椅子に座ってじっと待っていた。
何を言われるのだろう。あの人だって、あんな成りでもヤクザなのだから、怒鳴られたり、脅されたりするんだろうとそう思っていたけど、思いの外聡司さんは怒鳴りも脅しもしなくて、ともかくよかったと安堵してるどころか、俺の機嫌を取るみたいな態度さえ見せた。
俺は、脅されようが怒られようが、自分の要求をちゃんと伝えるって決めてた。
これまで、兄ちゃんの為だって言い聞かせて、自分の気持ちにも蓋をしてきたけど、そんなのはきっと馬鹿げてる。
俺は兄ちゃんの役に立ちたいとか、兄ちゃんを幸せにしたいとか言いながら、もしかしたら自己犠牲に酔ってただけなのかもしれない。
もうやめよう。兄ちゃんの為に出来ることって、他にもある筈だ。何も兄ちゃんの全てを背負う必要なんてなかったのに。
兄ちゃんから俺に向けられる愛情も異常なものではあるけど、俺のそれだって、十分異常だった。
たぶん俺たちは、互いに依存し合って愛情を補い合おうとしてたけど、1人前に愛を知らない俺たちだったから、愛し方を間違ってしまったのかもしれない。兄ちゃんは、やっぱり俺を愛していたというよりも、憎んでいたと言う方が近いだろうし、俺は兄ちゃんを愛していたつもりだったけど、兄ちゃんの為に動いているいじらしい自分が好きだっただけなのかもしれない。そんな自分に価値を見いだしていただけなのかもしれない。
「聡司さん、兄ちゃんに全部聞きました。俺の事、騙してたんですね」
「……すまない」
「俺は、ここで働かなきゃいけない理由も、お金を稼がなきゃいけない理由もなかった」
「……そうだ」
「突然逃げ出したりして、仕事に穴を開けたのは謝ります。でも、俺もう辞めるよ」
「……快人がいなくなったら、困るんだけどな……」
聡司さんはそう言ったきり黙った。
「……それだけ?」
「え?」
「だって聡司さんヤクザなんでしょ?俺の事、恐喝したりしないんだ?」
聡司さんの態度はあまりに想像と違っていて、拍子抜けと言ったら意味が違うけど、肩透かしを食らったような気分にはなった。
無言の聡司さんをじっと眺めていると、フッと突然笑い出した。
「僕もバカだなとは思う。奏人を使えば、快人を引き留める事は簡単だ。でも、そうするつもりはないよ。快人がいつ辞めたいって言い出すか、内心いつもビクビクしてた。快人にそう言われたら、僕には引き留められないから」
「どうして?」
「そんなの決まってる。快人に惹かれてるからだ。快人が嫌だって言うことを無理にさせたくない。でも、店の為には快人にいてもらわなきゃ困る。だから、快人は楽しくやってるんだって思い込んでこれまでやってきたんだけど……最近快人元気ないから、もうそろそろ潮時だとは思ってたよ」
「…じゃあ、もしかして、俺が辞めたいって言えば、いつでも辞められたってこと…?」
「そういうことになるね」
ふ、と笑った聡司さんはごそごそと鞄を漁ると、通帳と印鑑を俺に差し出した。
「快人の金だ。これをちゃんと渡したかったから、戻ってきてくれてよかった」
「会長の事とかも、いいの…?」
「大丈夫だよ。あの方は月人に入れあげてるけど、嫌がる相手を無理矢理…ってお方じゃない」
「そ…か」
あっけない。
この世界から脱出するのは、こんなにも簡単な事だった。ただ、俺が嫌な事を嫌だって言えばそれでよかったんだ…。
「快人は、これからどうするの?」
「うーん…まだ考えてないんだけど、時間もお金もあるし、ゆっくり考えてみるよ。俺はこれから奏人として生きるから、『お父さん』には色々頼む事もあるかも。その時はよろしく」
「お父さんよりも、『パパ』がいいんだけど…」
「さ、聡司さん!」
聡司さんの手がさっと俺の尻を撫でた。
「なーんて…会長の手前快人をモノにするのは無理だけど」
いたずらっぽく笑う聡司さんは、やっぱり底が知れないというか、油断できない人だなぁと思った。
*
*
*
俺が今立っているのは、高そうなマンションの、ある部屋の前だ。
居住まいを正してチャイムを鳴らした。
尋ね人には、お店から俺が行くことは伝えてあるけど、それでも結構緊張した。
「月人…」
ドアが開いて覗いた顔は、いつもと同じように優しくて、でも少し寂しそうに微笑んでいた。
「どうぞ、入って?」
「……お邪魔します」
広い廊下を抜けて、ドラマに出てくるみたいな高層マンションのリビングに通されて、ソファを勧められたけど、座らなかった。
「紺野さん、俺、突然いなくなってごめんなさい」
「お店から連絡あって、びっくりしたよ。このまま辞めるかも…って言われて、凄いショックだった」
「うん…それで、本当に辞めたんだ」
「誰か、いいパトロンが見つかった?」
「それは違う。そうじゃなくて、複雑なんだけど、俺本当は借金なんてなかったみたいで…」
「騙されてたの?」
「…うん。……わっ」
リビングの入り口付近に立ったままだった俺を、正面から紺野さんが抱き締めた。
「危なっかしいなぁ月人は。ちゃんと守ってくれる人はいるの?いないなら、俺に守らせてくれないか?」
「紺野さん……」
「…ごめんね、わかってるよ。月人は断りを入れる為に来たんだって」
紺野さんの腕が緩んで、徐々に身体が離れて、こんなこと俺が思うべきじゃないのに、心細くなってしまう。
「そんな顔しないでくれ。このまま閉じ込めておきたくなるから」
「ごめん紺野さん。ごめん。でも、この2年弱、俺は紺野さんがいてくれたから頑張れたし、辛い時も紺野さんの存在に凄く支えられてた」
「だったら…」
「俺自分でも思うよ。なんでこんなに頼りにしてるのに紺野さんを好きにならないのかって。答えは出てるんだけど…」
「好きな相手がいるのか」
「うん、あの仕事する前から」
「じゃあ、その相手の所に行くのか?」
「ううん、行かない。俺、けっこーそいつに酷いこと言われてさ。赦せない訳じゃないんだけど、ひとつ賭けをしてみようかと思って。だから、俺からは会いに行かない事にした」
「月人に酷いこと言うような奴に、渡したくないな」
「俺も、なんでアイツって思うんだけど、いい思い出が消えてくれなくてさ」
「そうか…」
「ごめんこんな話きかせて。でも、正直に話すのが礼儀かなって」
「……月人は、店を辞めてから変わったね。いや、それが本当の月人…快人なのかな?」
「……また複雑な事情で俺また名前違うんだけど、そうだね。最近人間らしい生活してるから、ちょっと元気出てきた」
「月人…快人とは、店じゃなく、プライベートで出会いたかったな」
「アイツより先に出会ってたら、紺野さんに惚れてたと思うよ。本当にありがとう」
紺野さんの寂しそうな顔を見ると、こっちまで寂しくなる。だから、
「じゃあ、俺もう行くね」
振り切るみたいに踵を返した。
「快人、最後にもう1度だけ…」
後ろから追ってきた紺野さんが、そっと背中に体温を移す。
「好きだったよ」
「……ありがとう」
紺野さんにもう会えなくなるんだと思ったら、泣きたくなるくらい切なくて、俺は今になってまた、苦しかった時期にどれだけこの人に支えられていたかを思い知らされた。
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