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1-7 アキヒコ
なあんかちょっと可愛 いなみたいな。そんな、いけない印象を水煙 から受ける。
ばりばり貪 り食いたいような。地球外の何かとファーストコンタクトしとかなあかんのかなみたいな。
キスのひとつもしといたら、水煙 喜ぶのかなみたいな、そんな考えたらあかんことが脳裏 をよぎり、あかんあかん、それは無理やからって、俺は我慢 の顔でうつむいてた。
いつ戻るんやろ、水煙 は。元のサーベルに。
はよ戻ってくれへんと困 る。
バスルーム出て、タオルで拭 いてやらなあかんなって、ふと思い立ち、磨 りガラスのドアのほうに目をやって、俺は凍 り付いてた。
誰かいるわ。
誰やろ。
トラッキー?
そんなわけないな。
たぶん俺がいま一番、そこにいてほしくない奴 やろ。
「アキちゃん、なんか寝られへんかったわ。俺も風呂はいる」
もちろん亨 の声やった。
何で今日に限 って惰眠 をむさぼらへんのや。野生 の勘 か。
亨 はにっこにこした上機嫌 の顔のまま、何の遠慮 もなくバスルームのドアを開いた。そして、そのまま固まった。
まるで静止画像 のようやった。
ドアの取っ手に手をかけたまま、満面 の爽 やかな笑 みで、亨 は青いのを抱っこしてる俺をにこにこ眺 めていた。
どれくらい、そのまま睨 み合ってたんやろ。
笑 いを引っ込めるタイミングをなくしたんか、それとも、これは夢やとでも思ってんのか、にこにこしたまま亨 は訊 いてきた。
「アキちゃん……それ、なに?」
「す……水煙 や」
俺は正直に答えた。
すると、首に抱きついてた水煙 が、のそりと億劫 そうに頭を起こして、つるんとした黒い目で、ドア前にいる素 っ裸 の亨 をじっと眺 めた。それも何となく、観察してるような目やった。
「水煙 」
他に言えることがないみたいに、亨 はその名を反復 した。
亨 は水煙 の目と、またしばし見つめ合ってた。
「なんで、お姫様抱っこやねん」
「立てへんのやって。せやから、しゃあないし、抱いてって体拭 いてやろかなと……」
事実やねんけど、その言い方はまずかったと、俺は言いながら気づいた。
違 うねん。亨 。そういう意味やない。
水煙 は、もともと自立できない奴 なんやで。自分で立たれへんねん。
本人がそう言うてるんや。たぶんほんまにそうなんや。信じてくれ。
俺がなんかしたから腰抜 けたわけやない。誤解 やで。
「アキちゃん」
どことなく蠱惑的 な小声で、水煙 は言った。
間近 で見ると、意地悪 そうな顔やった。
そんな綺麗 な顔を寄 せて、水煙 は俺の口元に鼻を擦 り寄 せた。
キスしたんかもしれへん。それについては詳 しく考えたくない。
「気持ちよかったわ。また入れてな」
甘い囁 き声で、水煙 は俺にそう頼 んだ。
風呂の話やで。風呂の話やろ?
風呂の話やからな、亨 、って、俺は言おうとした。でも無理やった。
笑ってたはずの亨 の顔が、だんだんと鬼の形相 になってくるのが怖 すぎて。
「もう殺さなあかんわ」
蒼白 な真顔 で、亨 はそう告げた。
目が爛々 と光って見えた。
さようなら皆さん。この物語はこれで終わりです。
いかにも、そんな感じやった。
もしもその時、最初の一撃 が、街を襲 っていなかったら。
揺 れた。
ずしんと下から叩 き上げるような揺 れが、マンションを揺 さぶった。
それは何か、地面の下にいる巨大なものが、身をうねらせてのたうったような、鋭 い衝撃波 やった。
それでもバスタブの水面 には、変化がなかった。
せやから本当には揺 れて無くて、なんというか、霊的 な波みたいなもんやったんやないか。人によっては何も感じないような。しかし、わかるやつには、わかる。
きいんと耳に響 くような悲鳴を、水煙 があげた。
びっくりしたみたいに一瞬激 しく暴 れた水煙 を、俺は落っことしかけて、慌 ててよろめいた。
咄嗟 のことやったからか、亨 がそれを支 えてくれた。お前、ええとこあるやん。
取り落とされかけた水煙 は、遠慮 無く亨 の肩を掴 んでた。
「今の聞こえたか、蛇 」
水煙 に訊 ねられながら、重い重いと亨 は文句言うてた。大して重くないのに。
「聞こえた聞こえた、痛い痛い」
ほんまに痛いらしく、亨 は水煙 に掴 まれた肩をかばって、ひいひい言うてた。
変やなあ。俺に抱きついてた時には、ふにゃふにゃやったけどなあ。
水煙 て、もしかして、俺には優しいんかなあ。
「起きたで、鯰 が」
顔をしかめて言い、水煙 は気配 を探 るような半眼 の目をしてた。
「ジュニア、アキちゃんに手紙書け。鯰 起きたでって。都 を守る結界 を張らなあかん」
俺のほうに戻ってきて、水煙 はそう教えた。
おとんに手紙って、そんなの、どうやって書くねん。
「鯰 が都 で暴 れたら、えらいことやで。どっかよそにやらなあかん。登与 ちゃんもおらんし、なんちゅう間の悪いこっちゃ」
水煙 は俺の目を見て、困 ったような目をした。
「やれるか、ジュニア。お前がやってみるか。やらなしゃあないな、秋津 の跡取 りなんやから」
でも心許 ないという目で見られ、俺はむっとした。
なんやねん、一体。鯰 って。
「失敗したらな、大地震 やで。時々はしゃあないねん。いくら力のある巫覡 でも、自然の摂理 やからな。でもちょっと前に暴 れたばっかりやろ。一体どうしたんや」
水煙 が言う、鯰 がちょっと前に暴 れた時というのは、阪神淡路大震災 のことやった。
あの時は、鯰 が神戸 のほうに行き、そこで一暴 れして、また何百年かの眠りについたはずやった。
悲惨 な地震やったけど、これでしばらく三都 に危機 はない。そういう事で落ち着いたはず。
その時、俺はまだ幼児やった。自分が役に立つような歳 ではなかった。
それでもそれが、世間 が震撼 する出来事 やったというのは知ってる。
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