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2-3 トオル

 アキちゃんと、夢中で抱き合うたびに、いつも思う。お前より好きな相手はいない。いるわけないわって。  なのに時々、ふと発作(ほっさ)みたいに思い出す。生きてんのか死んでんのかわからへん、前の男のことを。  それが不実(ふじつ)やて言うんやったら、そうかもしれへん。  だからって過去は変えられへんで。アキちゃんと出会った夜よりも前のことは、どうしようもない。 「何が言いたいねん、水煙(すいえん)」 「ほどほど妥協(だきょう)したらええやん。お前も浮気、ジュニアも浮気。案外それで丸く収まるんやないか。そのほうが、秋津(あきつ)(しき)も増えるしな。もしもジュニアがお前より気に入るやつがいて、お前はお前でもっと(しょう)に合う相手が見つかれば、お(たが)いそのほうがラクやろ」  水煙(すいえん)は、けろっとしてそう言うた。まるで、そんなの何でもないわというノリで。  けど、もしもそうなったら、俺はあまりにもつらい。  やってみれば案外、なんでもないことかもしれへんけど、今は想像したくない。  アキちゃんに俺よりも好きなやつができるなんて。俺にアキちゃんより、好きなやつができるなんて。それは嫌な想像や。 「なんでそんなこと言うんや」  もう(にら)む気も起きへんで、俺は(たず)ねた。 「()しかったわ、あの犬は。きっと、よう(はたら)いたやろ。お前にできるか、あんなこと」  あんなことって、どんなことやと、俺は()こうかと思ったけど、ほんまのところ、()くまでもなかった。  水煙(すいえん)が言うてるのは、勝呂瑞希(すぐろみずき)と名乗ってた犬神(いぬがみ)のことで、この夏、俺がやっつけた相手やった。  大学の後輩として現れ、アキちゃんを(はげ)しくよろめかせて、すったもんだの()()、あいつは死んだ。  水煙(すいえん)()(さき)に迷わず飛び込んで自殺した。そうすればずっと、アキちゃんの(そば)()れるって(さそ)われて。それに全然、迷う気配(けはい)もなかった。  俺がそれと同じことがやれるかって、()いてるんやろ。  そんなこと、できるわけあらへん。  俺は(いや)や。ただじっと見るだけで、話すことも(さわ)ることもできへん一方通行か。そこからアキちゃんが他の誰かとお幸せなのを、(なみだ)ながらに(なが)めんのか。永遠に。  そんなん、ひと思いに死んだほうがましやろ。我慢(がまん)ならんわ、俺には。 「お前は結局(けっきょく)()(まま)で、貪欲(どんよく)やねん。独占欲が強すぎて、チームワークを(みだ)す。お前がいる限り、ジュニアには(しき)が増えへん。それが力の限界や。どっか()ねとは言わへんわ、せめて許せ。目をつぶれ。ジュニアが他のと寝てる間、お前もどこか行っといたらええねん」  どこかって、どこや、と、俺はぼんやり考えた。  水煙(すいえん)の話を、真面目(まじめ)に聞いてたつもりはなかってん。  そんなん、せんでいいって、アキちゃんは怒るやろ。よそ見をするなって、そういう約束やんか。アキちゃん、よそ見しまくりやけど、でもそういう約束なんやで。  それを反論にする気力はなくて、俺は(だま)ってた。  皆、うるさいな。なんやかんや邪魔(じゃま)ばっかりや。  アキちゃん連れて、どっか消えたいわ。どっか遠くへ。二人でどこか、ものすごく遠いところへ行こうかって(さそ)ったら、アキちゃん一緒に来てくれんのかな。  俺は(さび)しい。いつも二人っきりでいたいんやけど、そういう時が案外ないな。アキちゃん人気者らしいから、なかなか俺だけのモンになってくれへん。(せつ)ないわ。  そう思ってしょげてた俺のところに、アキちゃんは唐突(とうとつ)(あらわ)れた。  それは別に、唐突(とうとつ)にって(わけ)ではなく、普通に歩いてきてたんやけど、俺が見てなかっただけやねん。  (あせ)だくで現れた姿に俺がびくっとして見返すと、アキちゃんは俺のことは見てへんかった。なんや目も合わせへんと、非常に不機嫌(ふきげん)な顔やった。 「勝たれへん」  それが大問題というように、アキちゃんは壁にもたれて、ペットボトルの水を飲みつつ、水煙(すいえん)にそう言うた。  汗がぽたぽた髪から(したた)ってた。  アキちゃんは汗かくのが嫌いで、俺とやるときはクーラーをガンガンにかける。それでも汗かいたって困ってる。なのに今は平気みたいやで。  たぶん他のことに、集中してるからやろ。どうやったら勝てるんやろって、そのことが気になってて。  薄目(うすめ)にそれを(はす)に見て、俺は(くや)しかった。俺とやるときも、それくらい集中してくれよ。汗かくぐらい何でもないって、夢中になってくれればええのに。 「教えよか」  水煙(すいえん)は、その時をずっと待ってたみたいな口調(くちょう)で、どことなくウキウキ答えてた。  アキちゃんはそれに、(だま)ってうなずき、(にぎ)ってた木刀(ぼくとう)を壁に(あず)けて、おもむろに水煙(すいえん)(つか)(にぎ)った。  鞘走(さやばし)る音がして、(きら)めく白い刀身(とうしん)が引き抜かれていき、アキちゃんは水を置いて、また戻っていった。今は誰もおらん、一人きりの道場へ。  新開(しんかい)師匠は休憩(きゅうけい)か、ざまあみろと満足げな髭面(ひげづら)で、道場の反対側の壁で休んでた。  アキちゃんはだだっ広い道場の中央当たりで目を閉じて、何かを(さぐ)気配(けはい)水煙(すいえん)(つか)(にぎ)り、一人で白刃(はくじん)を構えた。  やがて刀身(とうしん)から()らめく薄霧(うすぎり)が立つのが見えた。それは水煙(すいえん)が発する力や。鬼殺しの白い(もや)外道(げどう)迂闊(うかつ)()れんほうがええで。水煙(すいえん)に食われてまうからな。  裸足(はだし)で道場の黒光りする床板をわずかに()み込んで、アキちゃんは突然の一刀(いっとう)を振るった。それは俺が今まで見たことある中でも、断然(だんぜん)キレのある一太刀(ひとたち)やった。  アキちゃんが、上達(じょうたつ)してるのが、その一瞬で目に見えた。  おおっ、て向こう岸のひげ(づら)(おどろ)いてた。  水煙(すいえん)はその一刀(いっとう)きりではアキちゃんを休ませず、そのまま二度三度と、剣を()るわせた。  流れるような剣さばき。いつか見た時、まるで剣に振り回されてるようやった、アキちゃんの太刀筋(たちすじ)に、今は明らかな違いがあった。  たぶん、剣との一体感みたいなもの。  最後の一太刀(ひとたち)(くう)()ぐ音が鳴り、それがまるで、空間になにか得体(えたい)の知れない力を(はな)つみたいやった。  ああ、って、(あえ)ぐような声で、水煙(すいえん)感嘆(かんたん)した。

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