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3-7 アキヒコ
言うたで、俺は聞こえた。これ以上ないほど、くっきりはっきり聞こえてもうたわ。亨 がそれに息を呑 む音まで、否応 もなく聞こえた。
「それでも嫌 いなんか。困 ったなあ。ほんまにそうなん?」
「いや、なんというかやな……」
あからさまに、口説 く口調 の虎 に、亨 は足でも痺 れてんのかみたいな、悶 え苦しむ気配 で口ごもってた。
そしてたっぷり悶絶 する気配 をさせてから、亨 は小声になった。
「それは……それは、秘密です」
つらい、という気配 やった。
「ああ、そうなんか。ほんなら後で、答え合わせしよか」
ふっふっふと余裕 の笑みで、虎 はまた、シートに戻った。
そして遠慮 無く、くわえた煙草 にライターを出して火をつけた。
ふはあと吐 き出す煙 には、独特 の珍 しい匂 いが混ざっていたけど、それは俺には悪臭 やった。
俺の車で、喫煙 するな。吸 うやつは死刑。俺の亨 と、キスしようという奴も死刑。
「亨 ……」
ものすごい力で、ハンドルを握 りながら、俺は呼びかけた。
「信用してるからな、お前のこと」
それは嘘 やて思えることを、俺は助手席に語りかけてた。
信じてない。全然信用できない。ちらりと見ると、亨 は自分の口を両手で押さえてた。まっすぐ前見て、激 しく葛藤 するような顔してたわ。
「し……信じて」
吐 きそうなんか、みたいな、そんな青い顔で、亨 は俺にそう頼 んできた。
俺はそれに、なんにも答えへんかった。
信用するのが難 しい。俺はそう思ってた。それが正直なところで、実は脳裏 のどこかに、虎 とキスしてる亨 の姿が、ほの暗い闇 にまぎれて、ちらりとよぎってすらいた。
つらい。すごく。想像だけでもつらい。激痛 が走る。
俺はぜったいそれに、耐 えられへんと思う。もしほんまにそんな光景 を目にしたら。
目にはしなくても、そういう事実があったという話だけでも、気絶 する。もしくは内臓 を全て吐 く。
もしくは、俺はこいつと別れようと思うかもしれへん。
つらくて思わず閉じそうになる目をなんとか開いて、運転する先を見つめながら、俺は思った。
それは俺の、悪い癖 やった。
気に食わんことがあると、その相手と別れる。それが俺の癖 。
半年付き合 うて仲 も良かった女とも、クリスマス・イブのたった一回の喧嘩 だけで別れてもうた。
実を言うたら、今さらやけど、俺はあの女とずっと一緒にいてもええなと思ってた。その当時には。
気も合う気がしたし、控 え目やったし、和風の美人で、はんなりした京都弁で喋 り、しかも料理が上手 やった。
俺の言うことに反論したことが一回もない。そうやねえ暁彦 君て、常に同感。
あれせえ、これせえって、うるさく言うこともない。にこにこ優 しくて、頭も悪くなかったし、美大 の同級生なんやから、絵のことも理解してた。
そして、通 い妻 みたいに、呼ばなくても、程 ほどの日数あけて、うちまでやってくる。
俺には都合 のいい女やったんやろ。
こいつとなら、俺みたいな我 が儘 な坊 でも、なんとか一生付き合 うていけるんやないかって、そんな勝手 な思いこみもしてた。
結婚とか、そういうことは、まだぜんぜん視野 に入れてなかったけども、でもこの道がしばらく続いたら、その先に婚姻届 が置いてある。そんなような気持ちではいたんやで。その程度 の真面目 さはあったわ。
それがたった一回の喧嘩 で破談 やからな。
俺は我 が儘 な男やねん。それにボンボンやし。今まで一度も自分に逆 らったことがなかった女が、ちょっと我 が儘 言うてきて、怒ったような顔しただけで、なんでか怖 くなったんや。
俺はあいつに、妄想 を抱 いてた。
たぶん、おかんの身代 わりやった。いや、むしろ、おかんよりも、さらに何倍か理想化された、自分に都合 のいい、お人形さんみたいな架空 の女を、俺は抱いてた。
そしてその女が本性 をかいま見せた瞬間に、その、餓鬼 の玩具 みたいなアホな夢 から醒 めた。
怒って、俺に文句を言う女と食ってた飯 の席を蹴 って、俺は、もうお前なんか知らんと捨 て台詞 を吐 き、そのまま彼女と永遠に別れた。
相手がなにを考えてるか、ぜんぜん頭になかった。ただもう、とにかく、その場から逃げたかった。
そして逃避 したんや。飲んだくれて寝ようと思って、泊 まる予定やったホテルのバーに行き、どろどろに酔 うまで飲んで、その相手してくれたバーテンの亨 をお持ち帰り。
その時俺は、ほんまにこいつに惚 れてたんか。単に何か、抱いて寝られるもんが欲しかっただけやないかって思える。
それを思うと、亨 に済まない。こいつも人ではないなりに、人並みの心は持ってる。そんなふうに、俺の自己都合 で好きにしていいような相手やないわ。
昨日には、お前が好きでたまらんて、お前なしでは人生ありえへんみたいな顔で愛を囁 いて、今日にはもう要 らんて、そんなことしていい相手とちがう。
醒 めたらどうしようって、俺はそれが怖 い。
そういう性癖 のある自分のことを、嫌 というほど自覚 しつつ生きてきた。
もうええわ、お前には醒 めたって、そういう理由で別れた相手が何人いたか。
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