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3-8 アキヒコ

 俺はその時、どんな冷たい鬼やったんやろ。  皆(みんな)、大抵(たいてい)、どうしよもうなく泣き崩(くず)れてた。  ひどいて言うて、怒って泣いてた女もいたわ。  それでもそれが、可哀想(かわいそう)やって、もう思われへんかった。  それが恋が醒(さ)めるってことやと、俺はあっさり理解してた。  しょうがない、醒(さ)めてもうたもんは。俺も新しい誰かを探すから、お前もそうしろって、そういう態度でとんずらこいてたわ。  俺は亨(とおる)にも、同じことをするんやろか。もしもそういう時が来たら、一度はお前のために死ぬって思ったような相手やのに、亨(とおる)が泣いても、それが何って冷たく思って、とっとと去(さ)るのか。  家から追い出すんか、前の女を追い出したみたいに。  もう俺の家に入って来んといてくれ、お前は赤の他人やって、平気で鍵(かぎ)をドアまでまるごと全部変える。エントランスの顔認証(かおにんしょう)の、ご家族リストから、亨(とおる)の顔を消す。  そしてもう、永遠に見ない。今は好きでたまらんこいつの顔を。  切(せつ)なそうに俺を見る、アキちゃん好きやって言うてくれる、この愛しい顔を。  そんなことが、あるんやろか。俺の人生に。  あってほしくない。その時は、俺も鬼やろ。もはや完全に人でなしや。 「次の角(かど)、右へ行ってください、先生」  煙草(たばこ)を吹(ふ)かしながら、あたかもお前がご主人様かというデカい態度で、式神(しきがみ)・信太(しんた)は俺に伝えた。  その角(かど)を、曲がるかどうか、俺は悩(なや)んだ。  こいつを車からたたき出して、知らん顔して京都に帰る。そういう手もある。  今やったらまだ、それはものすごく非礼(ひれい)やろうけど、でも不可能(ふかのう)やない。  俺は微(かす)かに振(ふ)り返る視線(しせん)で、後部座席にいる虎(とら)と、その横に放(ほう)り出されていた水煙(すいえん)を見た。  その剣は、おとんから受け継(つ)いだ秋津家(あきつけ)の伝家(でんか)の宝刀(ほうとう)で、それを振(ふ)るうことは、俺がその家の家督(かとく)を継(つ)いだという意味を持っていた。  水煙(すいえん)はいつも、俺のことを、ジュニアは秋津(あきつ)の跡取(あとと)りやからと、隅(すみ)にも置かんような口調(くちょう)で話す。  それは俺の義務(ぎむ)なんや。  自分の血からは、逃(のが)れられへん。  苦い気持ちで、俺は夏を振(ふ)り返った。  俺のせいで、大勢(おおぜい)死んだ。勝呂(すぐろ)も死んでもうたし、他にも沢山(たくさん)。  それをひとりひとり焼香(しょうこう)に行った。  その死は普通の死とは違う。俺の血のなせるわざ。知らんと描いた絵が暴(あば)れて、その人たちを死に追いやった。  亨(とおる)が好きや、離れたくない、永遠に一緒にいたいって、それは俺の願望であり、ただの欲。いわば俺の我(わ)が儘(まま)や。  それより俺には、やらなあかん事があるんやないか。  それを全部ほったらかして、俺は夏中(なつじゅう)、亨(とおる)に狂(くる)ったみたいにして生きてたわ。  それを永遠に続けるつもりなんか。それで秋津(あきつ)の跡取(あとと)りとしての名を継(つ)げるもんやろか。男としての身が立つか。  自分が救(すく)えるかもしれへん人の命を無視して、そこからとんずらこいて京都へ直進(ちょくしん)。それが格好(かっこう)いい生き方と言えるかな。  もしも水煙(すいえん)が言うように、ほんまに鯰(なまず)なるモンがこの街の地下にいて、そいつが暴(あば)れようとしてて、その結果、大阪の夏よりもずっと大勢(おおぜい)が死んでもうたら、俺の後悔(こうかい)は深い。  その傷は、俺を一生負け犬にする。  そんな一生は、俺は嫌(いや)や。それが永遠に続く、そんな長い地獄(じごく)に耐(た)えられるような、そんな強さは俺にはないわ。  そやから、行くしかないな。海道蔦子(かいどうつたこ)さんのところへ。  鯰(なまず)とは何か、俺は何をすればええのか、それを訊(たず)ねるために。 「先生、その角(かど)やで、早く曲がってください」  ちょっと驚(おどろ)いたような口調(くちょう)で虎(とら)が教えた。  俺は黙(だま)って急(きゅう)ハンドルを切った。耳障(みみざわ)りな音をたてて、タイヤが神戸の道に、俺の惑(まど)い傷みたいな黒いあとを残していった。  それでもとにかく、車は右折(うせつ)した。  それによって俺は、ひとつの選択をした。  危機(きき)に続く、あるいは、英雄(えいゆう)になるための道筋(みちすじ)を行くという。  亨(とおる)はまだ自分の口元(くちもと)を押さえたまま、じっと俺を見てた。  綺麗(きれい)な顔やなあと、俺はまた思った。お前がずっと、俺だけのモンやったらええのに。  そう思うと、また悲しかった。その願いが悲しいと思えたことも、俺には悲しかった。  亨(とおる)はもう、永遠に俺のもんやって、そう信じてたことも、実は俺の妄想(もうそう)やったんやないかって、そんな気がして、胸が苦しくなってた。  車は海に向かって、南へと進路(しんろ)をとった。  どこかから、わあわあと、活気(っかき)のある気配(けはい)が湧(わ)いているのが感じられた。  それは、甲子園(こうしえん)球場(きゅうじょう)やった。  阪神タイガースがナイターやってるという、その蔦(つた)のからまる緑色の野球場は、海道蔦子(かいどうつたこ)さんの家の、すぐ背後にあった。  何やらまるで、熱く沸騰(ふっとう)した坩堝(るつぼ)みたいな、何かの神殿(しんでん)みたいな、そんな威容(いよう)を発(はっ)して、その球場は、日の傾(かたむ)きはじめた甲子園(こうしえん)の空を背景に、薄暗く浮かび上がって見えた。  綺麗(きれい)な建物やなあと、俺は初めて見るその蔦(つた)の聖地(せいち)のことを思った。  それがなぜ美しく見えたのか。それは、もしかしたら、大勢(おおぜい)が祈(いの)ったり喜んだり、時には泣いたりする場所やったからかもしれへん。  そこはまさに、ひとつの聖地(せいち)やった。  神殿(しんでん)が、必(かなら)ずしも神を祀(まつ)っているところとは限(かぎ)らない。  祈(いの)る人の心が、その地(ち)を聖(せい)なる場所にする。  そういう基本則(きほんそく)を、俺はその地(ち)に学ぶことになる。神戸にて。  神(かみ)の戸(と)と書いて、神戸(こうべ)や。  その名前に意味があるとは、俺はまだ、知らへんかった。 ――第3話 おわり――

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