30 / 928
3-8 アキヒコ
俺はその時、どんな冷たい鬼やったんやろ。
皆 、大抵 、どうしよもうなく泣き崩 れてた。
ひどいて言うて、怒って泣いてた女もいたわ。
それでもそれが、可哀想 やって、もう思われへんかった。
それが恋が醒 めるってことやと、俺はあっさり理解してた。
しょうがない、醒 めてもうたもんは。俺も新しい誰かを探すから、お前もそうしろって、そういう態度でとんずらこいてたわ。
俺は亨 にも、同じことをするんやろか。もしもそういう時が来たら、一度はお前のために死ぬって思ったような相手やのに、亨 が泣いても、それが何って冷たく思って、とっとと去 るのか。
家から追い出すんか、前の女を追い出したみたいに。
もう俺の家に入って来んといてくれ、お前は赤の他人やって、平気で鍵 をドアまでまるごと全部変える。エントランスの顔認証 の、ご家族リストから、亨 の顔を消す。
そしてもう、永遠に見ない。今は好きでたまらんこいつの顔を。
切 なそうに俺を見る、アキちゃん好きやって言うてくれる、この愛しい顔を。
そんなことが、あるんやろか。俺の人生に。
あってほしくない。その時は、俺も鬼やろ。もはや完全に人でなしや。
「次の角 、右へ行ってください、先生」
煙草 を吹 かしながら、あたかもお前がご主人様かというデカい態度で、式神 ・信太 は俺に伝えた。
その角 を、曲がるかどうか、俺は悩 んだ。
こいつを車からたたき出して、知らん顔して京都に帰る。そういう手もある。
今やったらまだ、それはものすごく非礼 やろうけど、でも不可能 やない。
俺は微 かに振 り返る視線 で、後部座席にいる虎 と、その横に放 り出されていた水煙 を見た。
その剣は、おとんから受け継 いだ秋津家 の伝家 の宝刀 で、それを振 るうことは、俺がその家の家督 を継 いだという意味を持っていた。
水煙 はいつも、俺のことを、ジュニアは秋津 の跡取 りやからと、隅 にも置かんような口調 で話す。
それは俺の義務 なんや。
自分の血からは、逃 れられへん。
苦い気持ちで、俺は夏を振 り返った。
俺のせいで、大勢 死んだ。勝呂 も死んでもうたし、他にも沢山 。
それをひとりひとり焼香 に行った。
その死は普通の死とは違う。俺の血のなせるわざ。知らんと描いた絵が暴 れて、その人たちを死に追いやった。
亨 が好きや、離れたくない、永遠に一緒にいたいって、それは俺の願望であり、ただの欲。いわば俺の我 が儘 や。
それより俺には、やらなあかん事があるんやないか。
それを全部ほったらかして、俺は夏中 、亨 に狂 ったみたいにして生きてたわ。
それを永遠に続けるつもりなんか。それで秋津 の跡取 りとしての名を継 げるもんやろか。男としての身が立つか。
自分が救 えるかもしれへん人の命を無視して、そこからとんずらこいて京都へ直進 。それが格好 いい生き方と言えるかな。
もしも水煙 が言うように、ほんまに鯰 なるモンがこの街の地下にいて、そいつが暴 れようとしてて、その結果、大阪の夏よりもずっと大勢 が死んでもうたら、俺の後悔 は深い。
その傷は、俺を一生負け犬にする。
そんな一生は、俺は嫌 や。それが永遠に続く、そんな長い地獄 に耐 えられるような、そんな強さは俺にはないわ。
そやから、行くしかないな。海道蔦子 さんのところへ。
鯰 とは何か、俺は何をすればええのか、それを訊 ねるために。
「先生、その角 やで、早く曲がってください」
ちょっと驚 いたような口調 で虎 が教えた。
俺は黙 って急 ハンドルを切った。耳障 りな音をたてて、タイヤが神戸の道に、俺の惑 い傷みたいな黒いあとを残していった。
それでもとにかく、車は右折 した。
それによって俺は、ひとつの選択をした。
危機 に続く、あるいは、英雄 になるための道筋 を行くという。
亨 はまだ自分の口元 を押さえたまま、じっと俺を見てた。
綺麗 な顔やなあと、俺はまた思った。お前がずっと、俺だけのモンやったらええのに。
そう思うと、また悲しかった。その願いが悲しいと思えたことも、俺には悲しかった。
亨 はもう、永遠に俺のもんやって、そう信じてたことも、実は俺の妄想 やったんやないかって、そんな気がして、胸が苦しくなってた。
車は海に向かって、南へと進路 をとった。
どこかから、わあわあと、活気 のある気配 が湧 いているのが感じられた。
それは、甲子園 球場 やった。
阪神タイガースがナイターやってるという、その蔦 のからまる緑色の野球場は、海道蔦子 さんの家の、すぐ背後にあった。
何やらまるで、熱く沸騰 した坩堝 みたいな、何かの神殿 みたいな、そんな威容 を発 して、その球場は、日の傾 きはじめた甲子園 の空を背景に、薄暗く浮かび上がって見えた。
綺麗 な建物やなあと、俺は初めて見るその蔦 の聖地 のことを思った。
それがなぜ美しく見えたのか。それは、もしかしたら、大勢 が祈 ったり喜んだり、時には泣いたりする場所やったからかもしれへん。
そこはまさに、ひとつの聖地 やった。
神殿 が、必 ずしも神を祀 っているところとは限 らない。
祈 る人の心が、その地 を聖 なる場所にする。
そういう基本則 を、俺はその地 に学ぶことになる。神戸にて。
神 の戸 と書いて、神戸 や。
その名前に意味があるとは、俺はまだ、知らへんかった。
――第3話 おわり――
ともだちにシェアしよう!