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8-9 トオル
「言うたことなかったっけ」
「聞いたことないなあ」
恨 んでる気配 もなく、寛太 は答え、そうやったっけという気まずそうな顔で、信太 は抱きしめてた体をちょっとだけ離 して、薄い笑みの覆 う寛太 の顔を睨 んだ。
見つめてるんやろけど、気合 い入りすぎてて、睨 んでるようにしか見えへんかった。
「愛してる。バリバリ愛してんで寛太 。さっき南京町 で亨 ちゃんとキスしたけどな、屁 でもなかったわ。お前とすんのに比 べたらな、なんでもない……お前が一番、最高や」
そう言って、信太はほとんど押し倒す勢 いでがばっと赤毛を抱き、ぶちゅううっと熱烈 なキスをした。
それや! ハッピーエンディング!
って。信太 、てめえ……余計 なこと言うてくれたな……。
「……今のほんまの話か、亨 」
横からすごく冷たい声がした。
あれっ。空耳 かな。誰の声やろ。
アキちゃんの声に決まってた。
「えっ、なに? 話ってなに? 俺聞いてなかったわ。いやあ、よかったなあ、ハッピーエンドで……」
必要以上にきつく、アキちゃんは俺の手を握 ってた。
「あいつとキスしたんか……」
ホラーとしか思えへん声やった。
「し……」
してへん。と、嘘 つこうと思ったのに、ギラギラしたようなアキちゃんの鬼っぽい目で睨 まれている自分に気付いて、俺は首絞 められたみたいに言葉に詰 まってた。
そうやった。俺はアキちゃんには、嘘 つかれへん。アキちゃんの式 やから。
大失敗。信太 のアホのせいで。バレへんはずの事が、バレバレに……。
「し……ましたけど、でも、でもなアキちゃん、聞いて、不可抗力 やねん、俺は虎 に襲 われたんや、事故やと思って水に流そう、虎 に噛 まれたんやと思って」
「噛 まれたんか!!」
血相 変えて怒鳴 るアキちゃんが、いけない想像をしたのは確実やった。
噛 まれてへん。舐 められただけ。
でも黙っとこうと思って、俺はふるふると首を振 って答えた。
その逃げ腰の姿を見て、アキちゃんが、はっとした顔になった。
「お前、なんでボタン全開なんや」
泣ける話やった。
そうや。急いで戻ったもんやから忘れてた。
信太 に迫 られたときに外 されて、そのまんまなんや。
まさかアキちゃん憶えてたなんて。そら憶えてるか。自分でボタン留 めたんやもんな。
「暑いかな、みたいな?」
もじもじ目を逸 らして、俺は膝 の上で自分の指を触 ってた。気まずい。
「留 めとけ言うたやろ、今朝。なんで言いつけ守らへんねん。お前は俺の命令には逆 らえへんはずやろ」
そんなことがあってええのかという震 えのある声で、アキちゃんは訊 いてきた。
ナイス着眼点 。鋭 い。こんな必要もないところでだけ勘 が鋭 いわ。
「あー、先生、心配ないですそれは。俺が開けたんや。乳首舐 めたろ思って。でも気持ちよすぎるからやめろ言われてやめたし、それ以上はなんもしてません」
信太 やった。お前、俺になんか恨 みでもあるんか。
青い顔して信太 を見ると、床 にだらけて、ごろにゃんみたいな鳥を抱っこしていた。そして、ああ良かったみたいなハッピーエンド後の顔で、にこにこしていた。
てめえ。せめて一発殴 らせて。できたら首を絞 めさせてもらってもええですか。
俺は本気でそう思ってたけど、本気でそう思ってるんは俺だけやなかった。
何の前触 れもなく、突然キレたみたいに、アキちゃんが平手 で俺の横 っ面 を張 った。
ひどい。父さんにも殴 られたことないのに。
なんて言うてる場合やない。その上、押し倒されて首を絞 められたんや。
「坊 ! やめなはれ!」
ぎょっとしたらしい蔦子 さんの声が、鋭 く止めてはいたものの、アキちゃんは全然聞いてなかった。
やばい。マジ切れしてるわ。目を見ればわかる。
アキちゃんがここまでキレるとは、俺は初めて見た。
俺は外道 やねんから、息が詰 まったくらいでは簡単には死なへん。
せやから余裕 といえば余裕 やったけど、俺がもし人間やったら、アキちゃんは今度こそ殺人犯。そんな渾身 の力がこもった指やった。
俺はほんまに、びっくりしてた。
アキちゃん、妬 いてんのか。
さすがに気も遠い気がして、俺はぼんやり目を閉じた。
亨 ちゃん、なんてあえないご最期 。
せやけどこれはこれで、実はまあまあ幸せかという気もして、俺はぼんやり迷ってた。アキちゃんの手を、はねのけるかどうか。
首を絞 めても死なんけど、アキちゃんほどの覡 が、本気の本気で渾身 の殺意 をぶつけてきたら、俺はたぶん殺されるやろ。
そしたら二、三の問題は解決する。
アキちゃんには式 が増えへんけど、それでええのか。俺と居 ると、不幸になるかもしれへんけど、それでええのか。そんなふうな、俺さえいなければ立ち消える、いくつかの問題が。
どうしようかなって、俺が迷ううちに、蔦子 さんが這 い寄 ってきて、怒ったような呆 れたような、冷 や汗 かいてる顔をして、アキちゃんの腕を白い指で掴 んできた。
「やめなはれ、無様 やで! 式神 相手に血道 をあげて。それで秋津 の跡取 りが勤 まりますのんか。トヨちゃん聞いたら泣きますえ」
「許 せへん、こいつが」
案外、冷静なような声で、アキちゃんは蔦子 さんに答えた。
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