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10-5 トオル
「そろそろ行かないと、本間 さん。上で皆さんお集まりでしょう」
腰 を浮かして、神父が急 かした。
藤堂 さんは引き留 める気配 もなかった。
ではまたと、そつのない支配人 の態度 で客を送り出そうとしていた。
せやけどその伏 し目 がちな目で、藤堂 さんはアキちゃんが握 っている水煙 の、鞘 に包まれた刀身 を見ていた。
藤堂 さんに、そんなもんが見えるはずがない。昔のこの人なら、ありえへん。だって普通の人間やったやもん。
俺はその事実を確信した。藤堂 さんはもう、人間ではない。
俺はこの人を、外道 に堕 としてから捨てた。
それを済まないと思うけど、今この場では謝 られへん。知らんふりさせてくれと、俺はアキちゃんについて出ようとした。
なのにそれを、金髪の神父が止めたんや。
「駄目 です、あなたは先に部屋へ行っていてください。会合には大司教様 もお越 しです。遠慮 してください」
悪魔 は去れと、神父はまたもや俺に言うてた。
選 りに選 って今か。
「アキちゃん、俺も行く」
俺は藤堂 さんの前で、初めて口利 いた。
できれば話したくなかってん。お前、えらいキャラ違うやないかって、思われるに決まってる。
アキちゃんは俺と神父を振り向いて見比べて、困ったような顔をした。
「うん……でもな、昨日みたいな事になったら、えらいことやで、亨 。そう長くはかからへんやろから、先に部屋行って待ってろ」
ついてくるなと、アキちゃんは俺に命令してた。
なんでそうやねん、こいつ。肝心 の時にはいつもこれや。
鈍 い。そして、離したらあかんときに、俺の手を離す。
憎いわ、アキちゃん。お前のその、つれなさが。
どうなっても知らんで、俺は。俺のせいやない。アキちゃんのせいやで。
「部屋を知らん、俺は。どこへ行けばええんか、わからへん」
それでも諦 め悪く追いすがった俺の背後で、藤堂 さんはにこやかに言うた。
「ご案内しますよ」
まるで親切なホテルマンみたいやな、藤堂 さん。
男前やわ、相変わらず。
俺はあんたのことも、顔で選んでん。最初はな。
紹介された人づてで現れたあんたが、男前のおっさんやったんで、俺の好みにジャストミートで、美味 そうやから食うとこかって、そういう軽い興味 が始まりやってん。
せやのに病気で死にかけやっていうもんで、俺も大概 深情 けやからな。あんたが可哀想 になって、ついついハマってもうたんや。
まあ、正直言うたら、顔良くて可哀想 っていうだけやのうて、勃 たへん言うなりに、あんたは床上手 やったからな。
さんざん悶 えたよ、あんたのところでも。
俺は溺 れてたんや。ぐでんぐでんに酔 っぱらわされた、大蛇 みたいに。
神父に連れられて出る去り際 、アキちゃんは不安そうに俺を見た。
疑ってるんやろ、どうせ。お前の好きそうなおっさんやなあって、アキちゃんにも分かるんやろ。
そう思うんやったら、連れてってくれたらええのに。俺より神父の言うこと聞くんか。アキちゃん。俺を信じることにしたんか。
信用できるわけないやんか。アキちゃんの手を離してもうたら、俺は邪悪 で淫乱 な蛇 やし、悪魔 なんやで。
しかし扉 は閉じた。
歩 み去る足音が遠ざかって、微 かにエレベーターのベルが鳴るのを聞いてから、藤堂 さんはやっと、また口を開いた。
「久しぶりやな、亨 」
聞き覚えのある低い美声 の、神戸の訛 りやった。
藤堂 さんは仕事するとき、声を作っている。
押しつけがましさのない、落ち着いた朗 らかさのある声で話す。訛 りのない標準語で。
せやけど二人きりになると、それより低いような暗い大人の男の声で話す。ちょうど今みたいにな。
「元気そうやな。相変 わらず、お前は美しいわ。まるで絵のようや」
「その絵は。絵はどうしたんや、藤堂 さん」
振 り返って向き合う気がせず、俺は早口に話題をすり替えてた。
「絵はある。この奥の部屋に。それに俺はもう、藤堂 さんやない。今は中西卓 やで」
「なんで改名 したんや」
背後からの声が近づいてくる気がして、俺は我慢 ならず振 り返った。
藤堂 さんは目の前にいた。俺のすぐ、目の前に。
「なんでって、分かるやろ。お前は勘 が働くほうやから。離婚したんや。もともと妻とは養子縁組やったからな、藤堂 はあちらの姓 で、別れたら俺はもう、藤堂 さんやない」
「じゃあなんて呼んだらええんや」
止めようのない早口で、俺は訊 ねた。藤堂 さんはさらに一歩歩み寄った間近 から、俺に微笑 みかけてきた。皮肉 な笑 みやった。
「なんとでも。お前の呼びたいように」
「なんで離婚なんかしたんや。俺がいくら言うても、奥さん捨てられへんかったくせに」
責める口調になる俺を、間近 に見つめて、藤堂 さんはいかにも可笑 しそうな顔をした。
「違うよ。捨てたんやない。俺が捨てられたんや。亨 、俺はな、実は一度死んだんや。癌 やったやろ、よもや忘れてへんやろ。それで一度死んだが、葬式 の最中 に、棺 の中で生きかえったんや」
可笑 しくてたまらんという顔を、藤堂 さんはしてた。
こんな人やったっけと、俺は思った。
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