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10-9 トオル

 その、わずかに湾曲(わんきょく)した()(さき)が、藤堂(とうどう)さんでも、俺でもなく、(かわ)いた血のような色の骨董(こっとう)らしいソファの背を、ざっくりと切り()くのを、俺はうわあと(さけ)んで見守った。  刃先は(すん)でで誰からも()れたが、それは偶然(ぐうぜん)やなかった。アキちゃんが、寸止(すんど)めしたんや。  水煙(すいえん)実体(じったい)のない剣で、鬼しか()ることができへん。  ソファには元通り、傷一つなかった。  どっちかいうたらアキちゃんのほうが傷だらけ。そんな顔して、剣振り下ろしたままの姿勢で、じっとソファの中にいる俺を(にら)むように見下ろしてた。 「アキちゃん……」  どっと()いてきた汗を感じて、俺は(かみ)(ひたい)にはりつかせ、アキちゃんの顔をまっすぐ見上げた。 「アキちゃん、信じて。俺、アキちゃんのこと、愛してる」  その声が、聞こえなかったはずはない。アキちゃんは(だま)って、(にら)む目やった。  藤堂(とうどう)さんも俺に乗ったまま、その話を聞くことになったが、もう(かま)うもんかやった。 「ほんまやで、アキちゃん。誰よりも愛してる。(くら)べようもないぐらい好きや。俺を()りたいなら()ってもええわ。でもそのことは、(おぼ)えておいてくれ」  ほとんど無意識にそう言い(つの)りながら、俺は思い出した。  ついさっき、藤堂(とうどう)さんから聞かされた話を。  俺はお前を愛してた。お前を抱きたかった。それだけは、(おぼ)えておいてくれ、って。  ああ、ほんまに藤堂(とうどう)さんは、俺を愛してくれてたんかもしれへんな。  なんや急にそのことが、(いや)みも反発もなく()に落ちた。  愛してたけど、この人は、俺を抱くことはできへんかった。何やかんやのしがらみで。大人の事情やら、薄情(はくじょう)やらがあって。  (えん)がなかったんや。仕方(しかた)ない。  でもそのお(かげ)で、俺はアキちゃんと出会えたんやないか。運命の出会いやで。  それが生憎(あいにく)ここで、水煙(すいえん)様にばっさり()られて終わりって、そんなオチかもしれへんけどな、アキちゃんがそうしたいんやったら、しょうがない。  愛してるって目で、見つめるほかに、俺にできることはない。  その目で見られて、アキちゃんは(ふる)えてた。もう剣は(かま)えてへんかった。それでも水煙(すいえん)はまだむらむらと、危険な(もや)(はっ)してた。 「どうやって、信じたらええんや、お前を。(たの)んだやないか、俺だけにしてくれって……」  アキちゃんは、それ以上口にしたら死ぬというような顔をしてた。  屈辱(くつじょく)やったんやろ。また俺を寝取(ねと)ったと思えた昔の男を前にして、泣き(ごと)言わされる羽目(はめ)になり、激痛(げきつう)が走ったんやろな。  アキちゃんはその時、俺を抱いているのが、絵を買った男やと知ってたらしい。  それが藤堂(とうどう)さんなんやって分かった上で、また(たの)んでた。俺を選んでくれって。そう(たの)むしかない、青臭(あおくさ)初心(うぶ)(わか)さで。  アキちゃんはすごく、苦しそうな顔をしていた。 「もう、今は無理。信じられへん」  アキちゃんはそう断言(だんげん)して、ふいっと剣を持ったまま、部屋を出て行く速い足取りになった。  追わなあかんと、俺は思ったが、藤堂(とうどう)さんは(いま)だにぽかんとしたように、俺の上に乗ったままやった。たぶんアキちゃんの直情(ちょくじょう)さに、あっけにとられたんやろ。 「退()いてえな、藤堂(とうどう)さん。アキちゃん行ってまうやんか!」  俺が遠慮(えんりょ)会釈(えしゃく)のない()(まま)(ごえ)怒鳴(どな)ると、藤堂(とうどう)さんはびっくりした顔で、ああ、すまんと言った。  そして俺を立たせてくれたけどな。律儀(りちぎ)な人やなあ。ぼさぼさなった髪の毛まで直してくれたわ。  そのまま走り出ようとした俺に、今度は神父が立ちふさがってくれた。  何をすんねん、童貞(どうてい)神楽(かぐら)くん。追わせてちょうだい。  アキちゃん、どこ行ったかわからんようになるやんか。 「悪魔(サタン)そのものだ。もう放置しておけない」  神楽(かぐら)神父は俺を断固(だんこ)とした目で見つめ、そして、ちらりと藤堂(とうどう)さんを見た。 「本間(ほんま)さんだけで()きたらず、中西(なかにし)さんまで毒牙(どくが)にかけたのか……」  むっちゃ()めてる目やったで。なんやねん、それになんか文句(もんく)あんのか。 「そうや。ていうか、アキちゃんよりこっちが先やったんや。ただ仕上(しあ)げただけ」 「彼は敬虔(けいけん)なキリスト教徒(きょうと)だ!」  (さけ)ばれて、俺は笑った。  なんやまるで、この人は俺のもの、みたいな言い(よう)やってん。 「でも今はもう悪魔(サタン)やで。そこどいてくれ、童貞(どうてい)神父。さっさと退()かんと、ケツに突っ込んで(おか)してまうで」  神楽(かぐら)はそれに、いかにもショックを受けたような(いか)りの顔をした。キレかけてる。 「中西(なかにし)さん、離れましょう。この悪魔(サタン)は私が必ず(はら)います。まずはあなたが逃げなければ」  藤堂(とうどう)さんの腕をとって助け起こし、神父は俺に十字架(じゅうじか)を見せた。ちょっと(いや)なような気もした。でもそれだけやった。  俺から離れるため、背後に(かば)った藤堂(とうどう)さんを連れて壁際(かべぎわ)退()く神父の後ろに、もうひとつの(とびら)があった。  それを俺に(あご)(しめ)して、藤堂(とうどう)さんはにこりと笑った。  悪いような笑みやった。こんな人やったっけと、俺はまた思った。  たぶん違ったやろう。それでも俺と混ざってもうたんや。  俺の性悪(しょうわる)な性質までも、(うつ)ってもうたんやな。

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