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11-8 アキヒコ
争うみたいによろめいて、勝呂 は翼 のある背を壁際 の、花瓶 に白百合 の飾られたマホガニーのテーブルに押し倒させた。
それは趣味のいい家具で、上にあった花瓶 も見事なもんやったけど、勝呂 に邪険 に払 われて、あえなく細かな破片 になって、水と百合 とを床に散 らせた。
「もう時間ない、先輩。急いでやって」
泣くような声で言われて、俺は焦 った。
まさかここで抱けって言うてんのやないよな。それはいくらなんでも無理やで、勝呂 。
それとも、やれっていうのか。
やってやれないことはない。結界 張って、そこに隠 れて、大急ぎで一発やれって?
俺はそんなの、やりたくないわ。そういう気にならへん。
なんでやろ、お前とのキスは悪くはなかった。それでも俺は燃えへんらしい。
なんでか知らん、気持ちええけど、それでも俺はうっとりしない。毎朝目覚めて、亨 を抱いて、その白い額 に触れるだけの、淡いキスをするだけのほうが、お前と舌絡 めてるより、ずっと酔 うてる。
でもそれを言うのは、あまりに酷 いよな。
「無理やで、勝呂 。そんな気にならへん。許してくれ」
「そんなら血を吸ってください。できるんでしょ。ぷんぷん匂 うわ、外道 の匂 いが……」
それが悪臭 やと言うように、勝呂 は嘆 く口調で言った。
お前もちょっと前まで、外道 やったくせに。呆 れるほど人食うて、俺を嘆 かせたくせに。
今は俺のほうが邪悪 やとでも言うんか。俺は誰も殺してへんぞ。お前がやったんやないか。
その罪は、全部燃やした。そやからもう清純 やって、そんなことをお前は言うんか。
俺は自分の感じてる罪を、このまま永遠に背負 っていくつもりやのに。お前だけ逃げようっていうのかと、俺は胸のむかつく切 なさやった。
お前ひとり、逃がしはせえへんで。俺のもんにしてやる。お前をめちゃくちゃに汚 して、もう二度と、天には昇 れんようにしてやるわ。
その時俺の胸に湧 いてた欲は、たぶん人外 のものやった。
俺はすでに悪魔 の一党 で、勝呂 の放 つ白い光が恨 めしかった。
お前はいつも俺に追い縋 ってたのに、お前まで俺を捨てて遠く高いところへ逃げていくのかと、感じた孤独 に胸を締 め付けられるような気がしてた。
「やるで、勝呂 、ほんまにええんやな」
俺は訊 ねた。勝呂 はそれに、必死で頷 いてたわ。
たぶん、焦 っていたんやろ。
「ああ……早うしてください。もう時間がないわ」
どうやって血を吸うか。それは理屈 やない。
天使にも血が流れているか、俺はそんなことを考えたことはない。
たぶん血は関係ないんやろ。俺は病原体 みたいなもんやねん。
邪 な蛇 の眷属 に、噛 まれて穢 れを移 される。それだけで天使は堕 ちると、そういうことなんや。
増 してその牙 を受けて、堪 えがたい愉悦 に喘 ぐんやったら尚更 や。
勝呂 は未 だに首輪 をしてた。銀色の鋲 のある黒革 を、自分でも驚 く力で引きちぎり、俺は勝呂 の首にある血の道をさらけ出させた。
そして、美味そうやと思わず舌の踊 るようなその動脈 に、俺は遠慮 なく自分の牙 を突 き刺 した。
こいつは俺のもんなんやと、俺はその時思ってた。
ほんとはずっと、そう思ってた。俺が手を出さへんかっただけで、お前はずっとそうやったやろ。俺にこうしてもらうのを、切 なくずっと待ってたんやろ。
その問いかけに応 える甘さで、勝呂 は仰 け反 り、鋭 く喘 いだ。心を満たす音やった。
震 える指が、俺の背をまた掴 んだ。
「死にそう……先輩。抱いて、欲しい」
それがただ抱くだけの意味ではないことは、俺には分かってたけど、そこまでやってやる気は俺にはなかった。
なんでやろ。ほんま言うたら俺は少々欲情 してた。誰かとやりたいって、そういう気分でいたんやけどな、頭に浮かんでくるのが全部、亨 の顔やった。
勝呂 をその代用にするのは、俺は嫌 やってん。それでもええって、こいつは言うけど、それやとあまりに鬼畜 やわ。俺はそこまで堕 ちたくないんや。
牙 に穿 たれた傷から流れ出る、血なのか何なのか分からんような甘い滴 りを、俺が貪 る舌で舐 めてると、勝呂 は悶 えて、俺に割られた足を切なそうに絡 めてきた。
こいつはどんな顔して喘 ぐんやろって、ちょっと思ったことはある。
それでも、その時、顔は見えへんかった。見たらあかんという気もしてん。
見たらきっと、俺は勝呂 を亨 と比べてしまうやろ。ここが違う、ここも違う、亨 はもっとこんな感じで、俺はそれが好きやったって、きっと思うてしまうんや。
「やっぱり蛇 がええんか、先輩。俺やと全然燃えへんか」
「そんなことない、勃 ってるで」
苦悶 する声で訊 く勝呂 に、俺は顔を上げ、何かに濡 れた自分の唇 を、舌で舐 めとりながら教えてやった。
「俺が欲しいって言うてください」
「お前が欲しい。俺の式 になれ。ずっと永遠に俺に仕 えろ」
求めに応 える自分の声が、びっくりするぐらい冷たくて、俺は焦 った。
それが自分の本音 かと、血の中にある冷酷 さみたいなのを感じてもうて。
「愛してくれへんのですか」
俺を見つめて訊 きながら、勝呂 は泣いてた。片方の目から一滴 だけ、輝くような透明 な涙が流れ、窓からの陽光に産毛 を透 かす白い頬 に、ゆっくりと線を引いた。
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