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11-10 アキヒコ
俺はいつの間にか手放してもうてた水煙 が、床の陽の光の当たる中に倒れてるのを、のんびりと拾 いに行った。
「ごめんな、また放置してもうて。でも……式 が増えたんやで。俺がお前の言うこときいて、ちょっとは機嫌 なおったか?」
それでも水煙 は黙 りやった。
黙 っているけど、水煙 の刀身 から、汗のような、涙のような一滴 が、つうっと溢 れてくるのを見つめ、俺はさっき、抱かれて泣いてた勝呂 の事を思いだした。
水煙 、まるでお前、泣いてるみたいやな。
初めは冗談でそう思い、それから俺はじわりと本気で焦 ってきた。
こいつはほんまに、泣いてるんやないかと思って。
剣が泣くなんて、そんなことあるやろか。変やないかって、そう思いかけたことを、俺は否定した。
水煙 はときどき笑うてた。剣のままでも、こいつを振るうと、けたけた楽しげに笑っているような時があった。
そんな剣なんやから、悲しければ泣くやろと、俺には思えた。
どうしようかと悩み、俺は慌 てて水煙 を引っつかみ、廊下 の先にあるインペリアル・スイートに急いだ。
扉 を開くとそこは、真っ白な部屋やった。まるで新婚 さん向けの部屋みたい。
実際そこは新婚 さん向けの部屋やった。ホテルやからな、結婚式とかやってんねん。その後の初夜 を過ごす泊 まり客が、ここで寝る。そんな部屋やった。
猛烈 に気恥 ずかしい内装 で、俺は一瞬でドン引きしたが、それでも気合いを入れて、バスルームを探した。
水煙 が剣のままで、黙 りやと、何が何やら分からへん。せめて人の姿やったら、怒った顔してるんか、泣いてんのかぐらい分かるはずやと思ってん。
それでバスルームの扉 を開いたら、そこも凄 かった。ここに住めるやろっていうぐらいの、部屋並みの広さで、どう見てもヴィーナスの誕生みたいな、貝殻 っぽい丸い純白 のバスタブがあり、それが秀逸 なデザインで、上品は上品なんやけど、どう見ても、さあ風呂でやろうみたいな気配 やねん。
ここに水煙 を浸 からせて、俺は大丈夫なんか。
でももう選択の余地 はない。まさか洗面台でやるわけには。
水煙 は人型 になれば、ちゃんと人間サイズなんやから、洗面台で戻したら可哀想 やないか。
俺は覚悟 を決めて、これまた洋 モノくさい金色の水栓 をひねり、念 のため浸 かり心地 のいい湯の温度になるように確かめた。
そこにまだ剣の形をしてる水煙 を沈 めると、金の水栓 の影のうつる湯の中に、水煙 は白くゆらめいていた。
「水煙 、頼 むしな、人の形になってくれ」
俺が頼 むと、剣はゆらゆらと、その輪郭 を揺 らめかせ、湯が白く泡立 ってきた。
やがて湯の中から、薄青 い指が這 い出てきて、まるで苦悶 するように、湯縁 でもたれて待ってた俺の腕を掴 んできた。
ざぶりと湯を波打たせ、水煙 は青い体を見せた。へたりこむような姿で、バスタブの中に浸かっている水煙 は、もう片方の手で自分の首を押さえてた。
そこから白い血が、だらだら胸に流れてる。
たぶん血なんやと、直感的 にそれが分かった。やっぱり白い血なんやと、俺は呆然 とそれを見た。
朦朧 としたような怒りの目で、水煙 は恨 むように、俺を睨 んだ。
そして、ひどく痛そうに自分の首を逸 らして俺に見せ、声が出ないと言うような仕草 をした。
俺は震えるほど後悔 して、水煙 の首を見た。
錆 びた針金 みたいなもんが、食い込む強さで喉 に巻き付いていた。
それが深い傷になり、水煙の華奢 な喉頸 を締 め上げていて、これでは息もできへんのやないかと思えた。
「俺のせいか……」
訊 ねると、水煙 は小さく二度頷 いた。
なんでかそれは、あまり責 めてるようではなかった。
悲しそうなような、疲れて哀 れっぽい、弱々 しさやった。
俺の手を引いて、首にある針金を解 いてくれと求める仕草 をし、水煙 は落ちくぼんだ目をしてた。
今にも湯の中に倒れそうやったんで、俺は慌 てて、水煙 の背を抱 えた。そして、触 るだけでも痛みそうに見える固い針金 を、恐 る恐 る緩 めにかかった。
脂汗 の浮 く仕事やった。
痛いんか、水煙 は時々体を引きつらせて耐 えてたし、それが全部自分のせいやと思うと、済 まなくて、励 ます言葉もなかった。
湯の色が白く濁 るぐらい、白い血が出た。とろりとした、確かにミルクみたいな血やったわ。
解 き終えた針金 を、バスルームの床に投げ捨てると、それは呪 いめいた黒い薄煙 をあげて、弾 けるように消滅 した。
「やってくれたな……ジュニア……」
やっと声が出るようになって、ひどく掠 れた声で水煙 が言うた第一声 は、それやった。
それでももう、怒っているようではなく、水煙は浴槽 越 しに自分を支えている俺の腕に、大人しく抱かれてた。
お前には済 まんことをしたと、俺は詫 びてたような気がする。
せやけど、ろくに言葉にならへん。
こいつはいつから、こういう状態やったんやろと想像して、それが新開 道場の帰り際 からではないかと思え、自分がそれと気づかず、苦しんでるこいつを尻目 に、さんざん亨 といちゃついてた事も思いだしてきて、水煙 がもう俺は嫌 やと言うても当然やと思った。
神聖な剣やから神棚 に祀 れと、師範 は言うてた。
それが当然の待遇 で、たぶんこいつはそれぐらい有 り難 い神さんやのに、俺はそれを崇 めんどころか、さんざん踏 みにじってきた。
水煙 が俺に、罰 ぐらい当てても当然やろ。
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