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13-2 アキヒコ
それでも普通の格好 してるときのほうが、神楽 さんは呼吸が楽 やというふうに見えた。
だって神父の服ってな、詰 め襟 みたいやねん。息が苦しそうに見える。
昨日、会議室で会った餅 なんか、もともと首ない体型みたいやのに、それが詰 め襟 着てはるわけやから、まるで首絞 められてるみたいで、こっちまで息でけへんような気がしたわ。
神父の服も似合 うてたけど、でも、神楽 さんは白シャツのほうが美しい。
たとえ晩夏 の朝でも、きっちり長袖 。暑くないんかと謎 やけど、それでも涼 しげに見える。
美人は汗 かかへん。亨 はすぐ汗 だくやけど、神楽 さんは汗 もかかんような美人に見えた。
周囲 が常 に春の野原とか、そういう感じの人やねん。
神父の服のときは、背後に稲妻 見えたけど。白シャツやと春の草原。あたかも六甲 の避暑地 に佇 む王子様みたいや。
それもそのはずで、神楽 さんはもともと、そういう人やねん。生まれ育ちが六甲 で、夏には山の中にある別荘 で避暑 生活。
冬にはスキー、夏にはテニスか、神戸の海をヨットでセイリング。そんな家のお坊ちゃんやねんで。
俺はそれを、後々 聞いたが、同じボンボンでも、世の中にはいろんなのが居 るんやと思った。俺はヨットなんか乗ったことがない。京都には海がないもんな。
上流 の神戸男は、いいシャツ着てるもんらしい。ホテルのある北野坂 から、さらに海のほうへ下 ったところにある元町 あたりには、昔から、シャツも仕立てるテーラード・スーツを売る店が並んでいる。
ちゃんと金持ってるお洒落 男は、この街ではいいシャツを着て、いいスーツを着ている。そういうもんらしい。
あくまで洋風の世界やねん。海風が運び込んでくる異国 風味 を、なんでもかんでも受け入れてきた。
神楽 さんもそれを象徴 する一人やった。
血の中に外国があって、名前まで半分外人やった。そして元町 のテーラーが仕立てた、いいシャツを着てる。
そして外国の神さんを信じてた。それが唯一絶対の正しい神やと深く囚 われて、それが苦しくて困 ってた。
おはようございますと、俺はやっと声をかけた。そうせえへんかったら向こうがいつまでも、ぼけっと遠い目してそうやったもんで。
俺の声に、神楽 さんは猛烈 にびくうってしてた。
よっぽど遠くへ行ってたんやで、この人。よくもそこまでぼけっとできるわと、俺は感心した。
はっと気がついた神楽 さんが、手が痛いと言うたからやった。
薔薇 の刺 がいっぱい刺 さってて、そら痛いやろという状況 やった。
トゲは五つ六つ、ぷつぷつと神楽 さんの白い手の平に刺 さり、小さな血の玉を作らせていた。
俺はそれを見て、腹減ったと思った。
早朝起き出して、このホテルのもうひとつの呼び物やという、中庭のガーデンテラスでのうまい朝飯を待っている身や。
後で亨 と落ち合って、二人で食う約束やけど、俺はもう、めちゃめちゃ腹が減っていた。
美味 そうやなあ、神楽 さん。血出てるわと、俺はぼんやり思い、ついつい舌に唾液 の絡 むような気分になった。
血が欲しいっていう、この欲は、ほんまにどっちなんやろ。
食欲なんか、それとも性欲なんか。
その中間という感じがする。もしくは両方なのか。説明しにくい。
それを経験したことがある者 でないと、わからんような感じ。
とにかく、腹減ってる時にうまそうな食い物を見たり、その匂 いを嗅 ぐのがたまらんように、血を見るとたまらん気がする。
それで俺は神楽 さんの傷から目を背 けた。
まさか言えへん、ちょっと舐 めましょうかとは。
そしたら、すぐ治るやろけど。水煙 の傷みたいに。
せやけど他に、修復 不能 な傷か何かが、俺と神楽 さんの間にぱっくり裂 けてできそうやんか。
「鞘 を預 かっていただいているそうで」
俺は庭園 の花に目を逸 らしたまま、神楽 さんに訊 ねた。
その花も、血のように真っ赤やった。最高に、間 が悪い。
血吸いたいなあ、昨夜 か今朝に、亨 に頼 めばよかったって、俺はくらくら後悔 してた。
「はい。すみません。考えてみたら、預 かる必要は全く無かったんですが、なんだか動転 してまして。お返しするついでに、本間 さんに相談しようかと」
相談て、何をやと、俺は話が見えへんかった。神楽 さんは支離滅裂 というか、ほぼ自己完結してた。自分の話の筋道 がおかしいことに、本人は気付いてないみたいやった。
つまりまだ、動転 したままやったんや。
それもそうやろ。考えてもみよ。俺はその時は知らんかったんやけど、この人昨日、血を吸う外道 に犯 されたんやで。それも昼から陽の暮れる頃までかけて、じっくりたっぷり、脳の芯 の芯 まで、すっかり動転 してしまうまで。
それで何とか帰してもらったものの、神楽 神父は何かに寄 り縋 りたかった。
餅 は神楽 さんに最初に師 を得 ることをすすめた、子供のころから通っていた教会の神父やった人で、神楽 さんのことをロレンツォと呼んでいた。
あの人に頼 ろうって、まず最初に思ったんやけど、肝心 の餅 はもう帰ってた。実は帰ったばっかりやった。いわゆるタッチの差ってやつや。
いなくなった古い弟子 が、そのうち戻ってくるやろかと、餅 は初めは会議室で、その後ロビーで待っていた。
せやけどいくら待っても現れる気配がしないんで、餅 は次の予定がつかえてて、仕方なしに帰ることにした。
それで水煙 の鞘 をフロントに預 けて立ち去った。
その時もしも一足早く神楽 さんが来るか、もしくは餅 が一歩遅く帰っていたら、未来は違うふうになっていたんかもしれへんな。
どっちが幸福なコースか、それは誰にも分からんのやけど、とにかく違う未来ではあったやろ。
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