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13-7 アキヒコ
「遥 、なにしてんのや。花切るだけに、えらい時間かかってんのやな」
本人はいかにも寛 いだような、神戸の朝にふさわしい声で言った。
低く響 く、いかにも大人の男みたいな美声 でな。
「あれ、本間 先生」
どうもこんにちは、みたいな、いかにも大したことないような声で、中西 支配人 は俺に言った。
気まずいわ。昨日サーベルで斬 りかかったばっかりの相手やで。
俺は別にこの人を斬 ろうとした訳 やない。なんでか知らんが、亨 をやろうとしてん。
それでもこの人はあの時、亨 を抱いて寝てたんやから、自分を斬 ろうとしたと思ったかもしれへん。その方が自然かもしれへんからな。
俺は寸止 めしたし、向こうは一応避 けた。そやから何ともなかったけども、翌朝鉢合 わせて、どうもこんにちはやないよ。
「早起きですね。昨日はどうも。亨 はもう殺されたんか。それともまだ寝てるんですか。あいつは寝起きが悪いからなあ」
あっはっは、みたいな爽 やかな世間話 として、俺はその話をされ、ちょっと愕然 としてた。
そうか。知らんはずはない。朝の亨 のぐでんぐでんを。
「起きてくるまで、起こさんほうがいいですよ。ご機嫌 そこねてもうたら、何されるかわかりませんからね」
にこにこして、中西 さんは話してくれた。
それは、俺の知らない亨 の話やった。俺が会う前。クリスマス以前の、ほんまもんの悪魔 やった頃の、亨 の話や。
「怖い怖い。仕事行くなってキレられて、ホテルの部屋に、火つけられたこともあるんや。朝っぱらからスプリンクラー作動ですよ。ほんまに泣けます」
それは泣けるやろな。この人、あのホテルの支配人やったんやもんな。朝から火災報知器 鳴り響 いて、部屋水浸 しにされたら泣けるよ。
「そこまで……しないですけど。うちでは」
部屋にスプリンクラーついてるけど、あいつはそれを知らんのか、大学行くなって火つけられたことはない。
亨 がそんな我 が儘 を、俺に言うたことあったっけ。
甘くとろんとした声で、行かんといてて強請 ることはあるけど、時間ギリギリまで付き合 うて、組んずほぐれつしてやれば、それで割と平気やで。
アキちゃん好きやてちょっと喘 いで気持ち良くなれば、それで満足してくれて、一日ずっと待っている。俺がまた戻るのを。
「そうですか。落ち着いたんでしょう、あいつも」
あれで落ち着いてるのかという顔で、その話を聞く俺に、中西 支配人はにこにこしていた。仕立てのいいスーツで、のんびり葉巻 をくゆらせながら。
俺は煙草 の匂 いは嫌 いなんやけど、それはいい匂 いな気がしたわ。
俺が嫌いな、あの煙の匂いはどうも、煙草 やのうて、それ以外の紙とかが燃えてる匂 いらしい。
それともこういうもんにも、ええのと粗悪 なのとがあって、ええもんはええのか。
「とにかく毎日が地獄 みたいでしたよ。今にして思えば。俺はあいつの何が良かったんやろ。悪い熱病みたいなもんです」
今まさにその熱病に俺に向かって、よくもそんな事言うわ。
俺はもう完治したみたいな顔で、中西さんは極 めて爽 やかで自由そうやった。
「後はよろしく。返品されても困 りますから。うちにはもう、新しいのが居 るし」
ゆっくり香る葉巻 を持つ手で、中西さんは顔面蒼白 のままでいた神楽 さんを指した。
それに神楽 さんは、えっ、誰、みたいな探す仕草 やった。
どう考えてもお前やろ。往生際 悪い。それも他人と思えへん。
「えっ、でも……その、何というか」
ついうっかり、いつも失言癖 が出そうになり、俺は絶対訊 いてはならん事を訊 きかけた。
さっきの神楽 さんの話では、めちゃめちゃ猛烈 くさかったけども、亨 から聞く限りでは、あんたは役立たず。一体どういう事なんやって、それはさすがに訊 いたらあかん。
しかし口ごもる俺の顔には、それがちゃんとと書いてあったんか。
中西 さんはしばらく妙 な顔をして、それから、ああ、と悟 ったように笑って俺を見た。
「亨 が、話したんや。そうか。あいつ何でも言いよるからな。ほんまに慎 みのない。でもご心配なく。もう治ったし。もともとそれほどでもなかったんです。嘘 も方便 や」
嘘 やったんや。嘘 。
亨 はそれを、見抜いてへんかった。
ということは、この人ほんまに亨 とやったことないんや。
よくぞあいつの猛烈 な誘惑 を、一度も落ちずに乗り越 えた。すごい人やという気がその時はしたな。
俺なんか五分も保 たへん。なんかもう戦う前から敗北してるもん。悪魔 の誘惑 に。堕 とされまくりやもん。
「何の話ですか……」
さすがに気になったんか、神楽 さんが口を挟 んできた。
俺と中西 さんは、青くなってぶるぶる震 えてるみたいな金髪の白シャツ男をじっと見た。
怪我 した指のままシャツを握 ってるせいで、神楽 さんの上物 のシャツには、じわっと血が染 みていた。
それをぼんやり見る中西 さんの目が、うっすら光っているようなのを、俺は眺 めた。
腹減 ったなあっていう目のように、それは見えた。
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