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13-9 アキヒコ
でももう断食 の時代は終わりやし、そんな我慢 は振 り捨 てて、自由にいこかって、そういう感じ。
すっかり何もかも吹 っ切れましたみたいな男の余裕 が、中西 さんを俺の目に、えらく格好 いい男に見せていた。
「どうしたんや、遥 。言うことあるんなら早う言うてくれへんと、俺は仕事に戻らんとあかん」
優しい大人の声で言い、中西 さんは言葉の先を促 した。
それでも神楽 さんは、一、二度口ごもっていた。
「卓 さんは、一緒に食事はしないんですか」
「しないなあ。俺はこのホテルの支配人やで。お客様と同席はせえへん。お前も客なんやから、庭で一緒に飯は食えへんなあ」
辛抱 しろよという声で言い、中西 さんはうつむく神楽 さんを心持ち覗 き込み、その頬 を撫 でるように、優しくひたひた叩 いてた。
絵になる男や。格好 いいし。それにちょっと中西 さんの顔は洋風やった。
単純に白人くさいというんやのうて、いろんな血が混ざってそうなエキゾチックな顔立ちで、彫 りは深いし目が妖 しい。
それが金髪 碧眼 で、どことなくヤワな神楽 さんを侍 らせてると、いかにも二人セットという感じがした。
亨 と居 るとき、怖いくらいにお似合 いやと思えたこの人も、今見ると神楽 さんとお似合 いやった。
そしてそれは、俺にはぜんぜん怖くなかった。むしろほっとした。
この人はもう、俺と亨 を脅 かさへん。もう敵やない。
この人と亨 を争って、刃傷沙汰 に及 ぶような、そんな無様 を晒 すこともない。
それで俺は心置 きなく、中西 さんは格好 ええなあと感心した。やっとのことで、また諸手 をあげて。
「そうですか。分かりました。では、いつ戻るんですか」
切 ないという目で、神楽 さんは妖 しく光るような中西 さんの目に幻惑 されている顔をした。
その気持ちが、俺にはちょっと分かった。俺も亨 にちょくちょく幻惑 されている。そういう時には他のことが目に入らへん。頭がぼうっとしてもうて。
「そうやなあ。分からんけども、夜やないか」
「夜ですか」
それが三万年くらい先みたいに、神楽 さんは悲壮 な顔でびっくりしていた。
「そうや。イイ子で待ってられるやろ。イイ子にしてられへんのやったら、悪い子しててもええんやで」
にやにや皮肉 に笑う中西 さんが、誰のことを思い出してるかは明白 やった。
亨 め。知りたないけど、あいつは一体、俺と会う前、どんな悪い子やったんや。
「しません、悪い子なんて。誰かと同じにせんといてください」
心外 やという、責 める口調で神楽 さんは答えた。
相変 わらず亨 が嫌いみたいやった。
でももう今は、それはあいつが悪魔 やからやないやろう。
中西 支配人は、よっぽど仕事が好きなんか、このホテルに住んでいた。
地下にあった支配人室のすぐ隣 が、ドア一枚隔 ててこの人の住まいになってたんや。仕事が好きすぎて、職場から一歩も離れたくないらしいわ。それが幸せやねんて、ホテルに住んでるのが。
せやから例の、俺が描 いた亨 の絵はな、なんとあの支配人室の、すぐ隣 の部屋にあったんやで。そこが中西さんの家やし寝室やったんやから。
後々 見たことあるけどな、だだっ広くて窓 が一個もないけども、めちゃめちゃお洒落 な部屋やった。
暗いコンクリートの壁はホテルの地下倉庫のまんまやったけど、ヨーロッパの骨董 やら、マニア垂涎 みたいな名のある現代家具が適当みたいに置いてあんのに、それが全体として統一感がある。そのまま写真に撮って、インテリア雑誌の表紙になりそうな部屋やねん。
その部屋の、一人で寝るにはでかすぎるベッドから、ようく見えるような位置に、壁一面をせしめて亨 の絵が飾られている。
それがどうしても、嫌 やったんやろ、神楽 さんは。
そらそうやなあ。にやにや亨 に微笑 みかけられながら、抱かれたくないやろ。昔はそいつと抱き合ってたはずの中西 さんに。
その絵のヤツの身代わりに、抱かれてるとは思いたくない。それが普通の感情なんやで。
「ずっとイイ子にしてんのか。お前はほんまに、可愛い子やなあ。それに美しい」
にこりと笑って、淫靡 に褒 めて、中西 さんはゆったりと葉巻 をふかした。
その姿を仰 ぐ目で眺 め、神楽 さんは一瞬だけ、キスしてほしそうな顔をした。
でも一瞬だけやった。中西さんはのんびり煙を吸っていて、そんなことする気配 もなかった。
それがつらいっていう顔で、神楽 さんはまあ、めろめろやったな。つらそうやったけど、それがええんやろ。
亨 なら恐 らく、ぶうぶう文句を言うやろうことが、神楽 さんには気持ちええんや。つれなくて、切 ないけど、それに耐えるのが愛、みたいなな。そんな変な世界なんやで。
人には相性 てのがあるな。好きかどうかとは別に、合う、合わへんがあるみたいや。
亨 は俺と合 うてたけども、藤堂 さんとは合 うてなかった。そこに餓鬼 くさくヘタレな俺が、この神戸のバリバリ格好 いいおっさんに勝てる勝因 があったな。
紙一重 やった。もしも相性 良くなかったら、俺はきっと敗北していた。そんな気がする。
もしもこの人が亨 の誘惑 に負けて、おとなしく抱いてやってたら、俺には最初からチャンスはなかった。出会う前から負けていた。きっとそうなんやろ。
こんな運命的な恋も、ほんのちょっとの偶然 やねん。
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