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13-11 アキヒコ
俺は亨 に何や知らんうちに、絶叫 二回転半ヒネリみたいな自由落下 に放り込まれてたけど、もうちょっと大人やったら、こういう時間もあったんかな。これから溺 れる深い泉 を見下ろして、さあ行こかみたいな覚悟 を決める時が。
「本間 先生は、今、大学四回生だそうで」
可愛 いもんやという笑みのまま、中西 さんは俺を見た。
「そうです」
「ほんならあと半年ほどで、ご卒業ですね。卒業後は、どうなさるんですか。やっぱり画家になられるんですか」
中西 さんにはきっと、世間話 やったんやろ。大人はよくそういうことを、何でもない話として訊 いてくる。
奴 らにとっては世間話 なんや。もうとっくに自分の仕事があって、どこで生きるか決めてある。そういう人らにとっては、明日はどっちだみたいな若造 の気持ちなんて、これっぽっちも分からへん。
俺は正直、悩 んでた。
俺は絵描 きになりたいねん。ずっとそう思ってたけど、いよいよ学生時代も終わりというのが見えてきて、急に不安になっててん。
俺はそんなもんに、ほんまになれるんかな。
それって、何。いったい何をして生きてる人。普段はなにをしてればええんやろ。
まともな人らは会社とか、自分がやってる家業 の仕事場へ行って、一日一生懸命 働いて、そして家に帰る。それが普通の人間の暮らしぶり。
それに比べて、俺は一体なにすんの。
一日絵描いて生きるんか。
それは今と、何が違うんやろ。
自慢 やないが、俺は自分で生計 は立ててない。学費 はおかんが払ってるんやし、俺は親の脛 を齧 ってる。
おかんはあの真っ白な細腕 一本で、俺を育ててくれたわけ。せやから頭が上がらんのやけど、それももう、あと半年で終わりやねん。
どうするつもりなんや君は、と訊 かれ、どうするつもりなんや俺は、と悩 む。そういう時期やったな。
画家になるのかと訊 かれ、そうですと自信持って言われへん。それがあんまり、自惚 れに思えて。
そうやねん、俺は悩 んでた。生まれて初めて、自分には才能あんのかと、その疑問に衝突 してもうて。
絵を描く才能って、何。
うちの教授 見てみ。苑 先生。
あの人、絵の技巧 はめちゃめちゃ上手 いんやで。それでも才能ないんやって自分で言うてる。
自分が描く絵に、まったく自信がないんやって。
それで、君はいつも自信満々でええなあ本間 君て、俺にぼやくんやけど、俺かてないわ。自信なんか。
それでも今までは何も疑問を持たずに描いてた。
学生やったからやねん。
絵を売ろうとか、それで食おうみたいな気が、全然無かった。描きたいもんを、描きたいように描いてきた。
それで楽しいて、学生時代はそれで良かったけどな、それが仕事って、そんなんありか。
だからって今さら、他のコースも思いつかへん。せやから、そこへ行くんやろ。
それでも自信がなくなって、ちょっと怖いと思ってた。
怖い怖い。ずっと学生のままでいたい。そんな臆病風 に、きゅうに吹かれてた。
「悩 んでるんですか」
びっくりしたように、中西 さんが俺を見た。ちょっと唖然 とした顔やった。
餓鬼 やなこいつと思われたんやろと気にしてもうて、俺はちょっと、むっとして歯を食いしばっていた。
「悩 んでるんです」
「何を悩 むことがあるんです? 才能あるし、先生は世間 でも名前が知れてるでしょう。読みましたよ、いろいろ、怖いもん見たさで」
中西 さんは夏の事件のからみで、雑誌やテレビが俺のことを、期待の新人画家みたいに面白半分で持 て囃 すのを、無視はしてへんかったらしい。
「買いかぶりです。俺はただの学生やし、ちゃんと絵描こうと思ったのも、大学決めることになった時の発作 みたいなもんやったんです。そやから勉強らしい勉強なんて、この三年ちょいしかしてませんし。それで画家やなんて、そんなもん、勤 まるもんかと……」
俺もいきなり人生相談してた。それも、元・恋敵 にやで。
俺もええ面 の皮 やわ。神楽 さんのこと馬鹿にできひん。
目の前にいた頼 れそうな奴 に、とりあえず取りすがったんやないか。ほんまに恥 ずかしい餓鬼 やねん。
中西 さんはそれでも、全然動揺 しいひん)かった。
どっしり構 えた、ちょっとおとんみたいな人やねん。
うちのおとん大明神 と違うで。一般的な意味合いでの父親キャラっぽいという意味でやで。
しかも俺はそういうタイプに潜在的 に弱いんやて言うてるやん。お父さん頼 らせてみたいな気分になるねんて。
自動的やねん。しょうがないねん。不可抗力 やったんや。
「勤 まるもなにも、勤 めるしかないでしょう。それが仕事なんやったら」
面白そうに笑って、中西 さんは俺のケツを叩 くような快活 な話し振 りをした。
「俺がなんでホテルマンになったか知ってます?」
知らんかった。亨 も知らんかったらしい。
そやからこの時、中西 さんは、亨 にも話したことがなかった話を、俺にした。
「俺はそこの神大 の出ですが、学生時代の夏休みに、一人で旅行したんです。旅行や言うても、バッグパック一個で歩いて国境越えるような貧乏旅行やで。それでも楽しかったですけど、東南アジアの内戦地帯を通り抜けたり、死ぬ目にも遭 うてな。旅の終わりには、ゆっくり垢 を落とそうと、シンガポールで一流のホテルに泊まることにしたんです。とは言え、いちばん安い部屋やったけど」
にこにこ話す中西 さんは、いかにもその旅が楽しかったという顔やった。
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