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13-15 アキヒコ

 あいつほんまに、帰ってくるんやろか。あれは現実の出来事(できごと)やったんか。  つい昨日ここで、不吉な予言(よげん)()いて消えた勝呂(すぐろ)瑞希(みずき)のことが、気まずく思い出された。  まだ何となく体のどこかに、ものすごい強さで俺を抱く、あの腕の感触(かんしょく)が残ってるような気がする。  あいつが(とおる)と、永遠にずっと、上手く()()いつけて、やっていけるもんなんやろか。  そんなこと、ありえへんような気がするわ。 「心配せんと、(とおる)(めし)行っておいで、ジュニア。俺が万事(ばんじ)ええように算段(さんだん)してやるから」  にやにや(いと)しげに苦笑して、水煙(すいえん)は俺を見た。  それは俺に、なんとなく、嵐山(あらしやま)のおかんを思い出させた。  あんたはほんまにしょうがない、悪い子ぉやわ、アキちゃんて、おかんは時々俺にそうぼやいてた。ちょうど今の、水煙(すいえん)みたいな顔をして、俺を見つめて。  俺はそれにいつも、なんとも答えようがない。  この時の水煙(すいえん)にも、答えようがなかった。心を見透(みす)かされてるように思えて。  ごめんな、水煙(すいえん)。お前も美しい神や。  京都に帰ったら、でかい水槽(すいそう)()うてやる。お前がそこでいつも、のんびりくつろげるように。  俺はきっとそれを、時々うっとり(なが)めるんやろ。そして(とおる)にムッとされるんやろうけど、それもしょうがない。お前も人が見とれるような、美しい姿(すがた)をしてるんやからな。  俺は語りかけるわけでなく、ただそう思った。  水煙(すいえん)はまるで、それが聞こえたみたいに、にやりと笑った。それも皮肉(ひにく)な笑みやった。  水煙(すいえん)はたぶんいつでも、俺の心を知っている。こいつに(かく)(ごと)はできない。おかんが何でもお見通しやったように、水煙(すいえん)には何も隠せへん。  それが俺にとって、水煙(すいえん)にとって、都合(つごう)が良かろうが悪かろうが、何でもかんでも筒抜(つつぬ)けや。  水煙(すいえん)がなにか答えてくるとは、俺は思ってなかった。でもその時は、頭の中に聞こえたような気がしたんや。水煙(すいえん)の、声でない声が。  それでもお前は、俺では物足(ものた)りないんやろと、水煙(すいえん)は俺に言うた。  確かに俺は、お前と抱き合いながら、そんなことを思ってた。それが全部、聞こえてたんやな、お前には。 「行っておいで、早う。昼になってまうで。それに、いちゃつきたいんやったら、俺から遠いところでやってくれ。胸糞(むなくそ)(わる)いから」  そうするしかないわと俺は()じ入り、ほな行くわという(とおる)に手を引かれてバスルームを出た。  水族館(すいぞくかん)行くときに、(むか)えに(もど)ると(とおる)水煙(すいえん)に声をかけ、水煙(すいえん)はそれに(だま)って(うなず)いていた。その横顔(よこがお)が何を考えてんのやら、俺にはさっぱり見当(けんとう)もつかへん。  俺があいつと、あるいは俺のおとんが水煙(すいえん)と、永遠にずっと()()うような、そんな世界もあるんやろかと、俺は思った。  あるんかもしれへん。ほんのちょっとの偶然(ぐうぜん)で、そんな未来へ行くのかも。  誰もいない海の底で、水煙(すいえん)はおとんの(たましい)をずっと抱いていた。今のと同じ、美しい青い姿して。  なんで戻ってきたんやろ。  そやのに、なんで俺を(とおる)とふたりで行かせてくれるのやろ。  それはなあ、アキちゃんと、水煙(すいえん)貝殻(かいがら)みたな風呂(ふろ)にもぐって、俺の心に答えを返した。  それはお前がそれを望んでるのが、俺には分かるからや。  お前が幸せやったら、結局(けっきょく)それでいい。俺は秋津(あきつ)の守り神で、お前の守り刀やねんから、お前を守れればそれでいい。  水煙(すいえん)、すまないと、俺はいつも(あやま)ってばかりやで。水煙(すいえん)すまない、水煙(すいえん)すまないと、いつもそればっかりで、いつも悪い子やねん。  それでも俺は(ひそ)かに水煙(すいえん)を愛してると思うわ。(とおる)が好きでも、おかんも愛してるみたいに。  それが悪やと、俺には思えん。悪い子で、(とおる)が時々俺を()めるように、顔さえ良けりゃの浮気者(うわきもん)やからかもしれへんけど、世の中に、自分を愛してくれる者がいて、それをお前はどうでもええわと無視して行過(いきす)ぎる奴がいて、それは()たしてマトモな奴と言えるんか。  そんな人生、(むな)しくないか。  俺は勝呂(すぐろ)を見ていると、いつも悲しい気持ちになったけど、それはあいつが俺が好きで、俺以外はどうでもええらしいからやった。  そんな生き方、(むな)しくないのかと、いつも悲しくなってくる。  (とおる)(やさ)しい。こいつは滅茶苦茶(めちゃくちゃ)やけど、案外(あんがい)(やさ)しい奴やねん。  俺がひとりで(さび)しかった時、俺を(ひろ)って帰ってくれたし、駅で俺をガン見していた猫がいたときも、それを(ひろ)ってきてエサをやっていた。  水煙(すいえん)にもエサやってたけど、それは迷惑(めいわく)そのもので、水煙(すいえん)は弱ったやろけど、でも(とおる)水煙(すいえん)に、カレー食わせるつもりらしい。なんて迷惑(めいわく)な。  でもそれは、きっと、(とおる)にとっては儀式(ぎしき)みたいなもんやねん。  こいつは黒猫にも萬養軒(まんようけん)のカレーを買ってきて食わせてた。それも迷惑(めいわく)やったやろうけど、(とおる)なりの愛情表現なんや。家族はいっしょにデパートのカレーを食うもんやという。  迷惑(めいわく)なんやけどな、こいつは(やさ)しい。その(やさ)しいところが俺は好き。たぶんそれが、俺にとっては(とおる)の、何者にも代えがたいところ。その(やさ)しさに、べったり甘えて俺は生きてる。  ガーデンテラスで(めし)食いながら、俺は(とおる)()いてみた。  中西(なかにし)さんは前に買ったお前の絵を、手放(てばな)したいらしい。代わりになる絵を描いてほしいと(たの)まれてる。俺は何を描いたらええやろかと。  あの人の一番好きなもんはなんやろ。お前はそれを知ってるかと()くと、(とおる)は不満げな顔で、知っていると言うた。 「ホテルや」 「ホテル?」

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