166 / 928

15-4 アキヒコ

天使(てんし)()うてる神のひとりや。うちの新入りの犬の、前の社長やないか。ヤハウェや。元は地方神やったけど、営業が得意(とくい)でなあ。えらい出世(しゅっせ)したもんや。みるみるシェア拡大(かくだい)して、今やもう、あまりにデカくて人界(じんかい)に姿(あらわ)すこともない。隣近所(となりきんじょ)の神の縄張(なわば)りをガンガン食うてもうて、元いた神は吸収合併(きゅうしゅうがっぺい)されて天使(てんし)として(つか)えるか、悪魔(サタン)として追われた。お前もきっと、そういうのやろ。昔の名前は忘れたか」 「(うそ)お。忘れたで。過去は振り返らんことにしてんのや」  (とおる)はものすごサバサバした口調で、そう言うてた。  ほんまに忘れたようやった。  なんでそんなんが京都のホテルに()るねん……。  俺は正直ぽかんとしたが、聞き流した。  知ってもしゃあない。(とおる)の過去なんて。聞くのに一生かかる。  だって、その過去話、何千年分あんのや。  (かり)に二千年ぐらいとして、一日にさらっと一年分ずつの総括(そうかつ)ダイジェストを聞くだけでも、二千日かかるねんで。五、六年かかる。ダイジェストでもやで。  そして現実問題、この、クリスマスからこっちの、たったの八ヶ月を語るのに、俺ら、どんだけかかってる?  こいつも(おぼ)えてへんて言うてんのやから、もう思い出させるな。  きっと俺が何百回も気絶(きぜつ)するような恐ろしい話も混ざってる。  見つめよう、これから二人で歩む未来だけを。(とおる)の神話はこれから作られるんや。俺がその神官やしな。 「まあええわ。それも、どうでも。俺はそんな権威(けんい)主義(しゅぎ)には興味(きょうみ)ない。経歴(けいれき)は関係ないからな、水地(みずち)(とおる)。どんなご大層(たいそう)な名前があったとしても、今、秋津(あきつ)の役に立たんようなら、ただのヘタレの(とおる)やで」  水煙(すいえん)は意地悪く笑い、そう()めくくった。 「ヘタレ!」  唖然(あぜん)としたふうに、(とおる)()り返していた。  そこまで言われたことないわって顔やった。  俺はそれに苦笑(くしょう)した。  もしかしたら(とおる)も大昔には、立派な神殿でもあって、そこで(あが)(たてまつ)られて、毎日ええこと言うてもらってた神さんやったんかなあ。  神社で神主(かんぬし)さんが、そこの祭神(さいじん)に毎日祝詞(のりと)あげてるみたいに。  あれって、神さん()(たお)してるんやん。口説(くど)きやで。  俺ももっと、(とおる)にええこと言うてやらなあかんのかなあ。  ヘタレ呼ばわりはちょっとさすがに、あんまり可哀想(かわいそう)やもんなあ。 「何笑ってんの、アキちゃん。なんとか言うてえな。俺が下手(したて)に出てると思て、この宇宙人、言いたい放題(ほうだい)やないか。俺ってヘタレ?」  (とおる)は物悲しく俺に(すが)る口調やった。せやけど抱きつこうにも、もう水煙(すいえん)で満員なってる。 「そんなことない。美しい美しい。すばらしい神や」 「情感(じょうかん)()もってへんわあ……」  ぼやく声で言い、(とおる)は自分がもたれてた、大水槽(だいすいそう)の中の青い薄暗がりを振り返って見た。  その(へこ)んだような横顔はやっぱり綺麗(きれい)で、()(たた)えなあかんような気はしたけども、今さら言うのも()ずかしい。  絵にもいっぱい描いたし、もう見慣れてもうたわ。  それでも見るたび綺麗(きれい)なんやけどな、いちいち言うのは()れるやんか。言わんでええねん、そんなのは。言わなくたって分かるやろ。  それとも分からへんのかな。青いガラスにうつってる、(とおる)物憂(ものう)げな横顔を(なが)め、俺は内心気まずく()れた。  そして気づいた。  あれ。なんでやろ。なんで(とおる)が、(うつ)ってんのやろ。  わざわざ(うつ)ることにしたんかな。別に俺と手を(つな)いでる(わけ)でもないし、(かがみ)(うつ)る理由がないような気がするんやけどな。  なんか特殊な(かがみ)なんかな。  そう思って(なが)める水槽(すいそう)に、(あや)しく(うろこ)を光らせる魚の()れが、また回遊(かいゆう)してきていた。  次々と、流れ去るように泳いでいくでかい魚の(うろこ)の色は、幻想的(げんそうてき)七色(なないろ)やった。  なんていう魚なんや。こんなのがこの世に()るんやって、思わず見とれる俺の前を、ぶあついガラスと海水の層を(へだ)てて、微笑(ほほえ)む女の顔がいくつか、泳ぎすぎていった。  あっけにとられて、俺はそれを見た。  人魚(にんぎょ)やった。たぶん人魚(にんぎょ)。  上半身(じょうはんしん)が人間の女みたいで、長く(ただよ)う黒髪に、花みたいなもんを()している。  それは見たこともないような海の植物で、真っ赤で肉厚(にくあつ)の貝のようにも見えた。まるで血が(かよ)ってるみたいな、(あざ)やかな赤い肉をしてる。  青白い肌を(かざ)るように、きらめく貝がこびり付いていた。  それは別に、世の中のありがちな絵にあるように、彼女らの、(あわ)乳房(ちぶさ)を隠すようではなかった。  美しい裸体(らたい)()ずかしげもなく(さら)したままで、青や緑の(うろこ)(おお)われた魚体(ぎょたい)をくねらせ、楽しげに人魚(にんぎょ)たちは泳いでた。 「に……人魚(にんぎょ)がおるで」  (おどろ)いて、俺は皆に言うたけど、誰も(おどろ)いてへんかった。  普通の人らには見えへんらしい。大水槽(だいすいそう)()り付く親子連れや、宿題らしい絵を描くために、画板(がばん)を持って(ゆか)に座り込んでる子供らは、ぜんぜん平気で(なが)めてて、(かつお)(さめ)が泳ぐのを、いかにも(すご)そうに追う目をしてる。  そんなもんより、他にもっと見るもんあるやろ。よくよく見れば、どう見てもただモンやない魚が混ざってた。  ちょっと部分的に人くさいやつもいる。気色(きしょく)悪い。人魚(にんぎょ)のほうがいい。美しいから。 「気づいてへんかったんか、アキちゃん。(にぶ)いわあ、相変(あいか)わらず……」  感心(かんしん)したように(とおる)が俺を()めた。()めてるみたいな口調やった。

ともだちにシェアしよう!