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15-4 アキヒコ
「天使 を飼 うてる神のひとりや。うちの新入りの犬の、前の社長やないか。ヤハウェや。元は地方神やったけど、営業が得意 でなあ。えらい出世 したもんや。みるみるシェア拡大 して、今やもう、あまりにデカくて人界 に姿顕 すこともない。隣近所 の神の縄張 りをガンガン食うてもうて、元いた神は吸収合併 されて天使 として仕 えるか、悪魔 として追われた。お前もきっと、そういうのやろ。昔の名前は忘れたか」
「嘘 お。忘れたで。過去は振り返らんことにしてんのや」
亨 はものすごサバサバした口調で、そう言うてた。
ほんまに忘れたようやった。
なんでそんなんが京都のホテルに居 るねん……。
俺は正直ぽかんとしたが、聞き流した。
知ってもしゃあない。亨 の過去なんて。聞くのに一生かかる。
だって、その過去話、何千年分あんのや。
仮 に二千年ぐらいとして、一日にさらっと一年分ずつの総括 ダイジェストを聞くだけでも、二千日かかるねんで。五、六年かかる。ダイジェストでもやで。
そして現実問題、この、クリスマスからこっちの、たったの八ヶ月を語るのに、俺ら、どんだけかかってる?
こいつも憶 えてへんて言うてんのやから、もう思い出させるな。
きっと俺が何百回も気絶 するような恐ろしい話も混ざってる。
見つめよう、これから二人で歩む未来だけを。亨 の神話はこれから作られるんや。俺がその神官やしな。
「まあええわ。それも、どうでも。俺はそんな権威 主義 には興味 ない。経歴 は関係ないからな、水地 亨 。どんなご大層 な名前があったとしても、今、秋津 の役に立たんようなら、ただのヘタレの亨 やで」
水煙 は意地悪く笑い、そう締 めくくった。
「ヘタレ!」
唖然 としたふうに、亨 は繰 り返していた。
そこまで言われたことないわって顔やった。
俺はそれに苦笑 した。
もしかしたら亨 も大昔には、立派な神殿でもあって、そこで崇 め奉 られて、毎日ええこと言うてもらってた神さんやったんかなあ。
神社で神主 さんが、そこの祭神 に毎日祝詞 あげてるみたいに。
あれって、神さん褒 め倒 してるんやん。口説 きやで。
俺ももっと、亨 にええこと言うてやらなあかんのかなあ。
ヘタレ呼ばわりはちょっとさすがに、あんまり可哀想 やもんなあ。
「何笑ってんの、アキちゃん。なんとか言うてえな。俺が下手 に出てると思て、この宇宙人、言いたい放題 やないか。俺ってヘタレ?」
亨 は物悲しく俺に縋 る口調やった。せやけど抱きつこうにも、もう水煙 で満員なってる。
「そんなことない。美しい美しい。すばらしい神や」
「情感 籠 もってへんわあ……」
ぼやく声で言い、亨 は自分がもたれてた、大水槽 の中の青い薄暗がりを振り返って見た。
その凹 んだような横顔はやっぱり綺麗 で、褒 め称 えなあかんような気はしたけども、今さら言うのも恥 ずかしい。
絵にもいっぱい描いたし、もう見慣れてもうたわ。
それでも見るたび綺麗 なんやけどな、いちいち言うのは照 れるやんか。言わんでええねん、そんなのは。言わなくたって分かるやろ。
それとも分からへんのかな。青いガラスにうつってる、亨 の物憂 げな横顔を眺 め、俺は内心気まずく照 れた。
そして気づいた。
あれ。なんでやろ。なんで亨 が、映 ってんのやろ。
わざわざ映 ることにしたんかな。別に俺と手を繋 いでる訳 でもないし、鏡 に映 る理由がないような気がするんやけどな。
なんか特殊な鏡 なんかな。
そう思って眺 める水槽 に、妖 しく鱗 を光らせる魚の群 れが、また回遊 してきていた。
次々と、流れ去るように泳いでいくでかい魚の鱗 の色は、幻想的 な七色 やった。
なんていう魚なんや。こんなのがこの世に居 るんやって、思わず見とれる俺の前を、ぶあついガラスと海水の層を隔 てて、微笑 む女の顔がいくつか、泳ぎすぎていった。
あっけにとられて、俺はそれを見た。
人魚 やった。たぶん人魚 。
上半身 が人間の女みたいで、長く漂 う黒髪に、花みたいなもんを挿 している。
それは見たこともないような海の植物で、真っ赤で肉厚 の貝のようにも見えた。まるで血が通 ってるみたいな、鮮 やかな赤い肉をしてる。
青白い肌を飾 るように、きらめく貝がこびり付いていた。
それは別に、世の中のありがちな絵にあるように、彼女らの、淡 い乳房 を隠すようではなかった。
美しい裸体 を恥 ずかしげもなく晒 したままで、青や緑の鱗 に覆 われた魚体 をくねらせ、楽しげに人魚 たちは泳いでた。
「に……人魚 がおるで」
驚 いて、俺は皆に言うたけど、誰も驚 いてへんかった。
普通の人らには見えへんらしい。大水槽 に張 り付く親子連れや、宿題らしい絵を描くために、画板 を持って床 に座り込んでる子供らは、ぜんぜん平気で眺 めてて、鰹 や鮫 が泳ぐのを、いかにも凄 そうに追う目をしてる。
そんなもんより、他にもっと見るもんあるやろ。よくよく見れば、どう見てもただモンやない魚が混ざってた。
ちょっと部分的に人くさいやつもいる。気色 悪い。人魚 のほうがいい。美しいから。
「気づいてへんかったんか、アキちゃん。鈍 いわあ、相変 わらず……」
感心 したように亨 が俺を褒 めた。褒 めてるみたいな口調やった。
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