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16-2 トオル
注文せんでも飯 は来た。
この店にはメニューというもんがない。
だって二十四時間、英国風 の朝飯 しか出さへんのやし、そのメニューは決まってた。
客が来て、席についたら、それはポリッジと薄 いトーストと、卵とベーコンと焼いたマッシュルームとトマト、そしてベイクド・ポテトを食うて、紅茶 を飲むということやった。
俺とアキちゃんに紅茶 を出しに来て、どう見ても英国人 みたいな金髪 の若い店主は訊 いた。卵 はどうする、って。
炒り卵 にするか、ゆで卵 にするか、それは半熟 か、固ゆで か、落とし卵 にするか、オムレツにするか、目玉焼き にするか、それなら両面焼き のか、それとも片面焼き か。そういうことやで。
アキちゃんはいつでも、卵は片面の目玉焼き やし、俺もそれでええわって、ついでにまとめて注文してやった。
コーヒーないですかって、一応訊 いた。アキちゃん、コーヒー飲まへんかったら死ぬし。
けど、ない、と店主に笑って断言 された。ないやろと思た。だって匂 いがせえへんもん。
「コーヒーがない……」
まるで酸素 のない星に来てもうたみたいに、アキちゃんはがっかりしていた。
「英国風 やから……」
気の毒そうに笑って、藤堂 さんはアキちゃんを慰 めていた。
そこまで徹底 して英国風 やと思ってなかった。知ってたら連れてきてへんかった。
それに藤堂 さんまでいると分かってたら、絶対来 えへんかったのに。
なんか、むちゃくちゃ違和感 あるわ。なんでやろ。なんか変な感じ。
藤堂 さんの連 れが、俺やのうて神楽 遥 。それも変。
それに今は十時過ぎで、しかも平日やのに、藤堂 さんがホテルやのうて外の店にいる。それも変。
そして藤堂 さんがスーツやのうて、むちゃくちゃカジュアルなシャツにジーンズを着ている。それが猛烈 に変。
いや、変やない。似合 てるけど、藤堂 さんはスーツ着てないと息でけへんのやと思ってた。
「なんで居 るの……十時過ぎやで」
どうしても気になって、訊 かんでええのに俺は訊 いた。藤堂 さんに。
「休みなんです」
神楽 遥 が答えた。お前に訊 いたんやない。
これからお前は、ロレンツォ・お前に訊 いたんやない・遥 ・神楽 ・スフォルツァと名乗 ればよし。
「休み?」
それは何ですかという声で、俺は訊 ねた。藤堂 さんに。
「定休日 です」
また、神楽 遥 が答えた。
余計 な口挟 まんでええねん。ロレンツォ・お前に訊 いたんやない・余計 な口挟 まんでええねん・遥 ・神楽 ・スフォルツァ。名前どんどん長なるやないか。
俺は、けろっとして紅茶 飲んでる破戒 神父を睨 んだ。
白磁 の、薔薇 のレリーフのあるティーカップやった。
それが非常にかなり普通に似合 っていた。王子様みたい。小夜子 ワールドそのまんま。
シンプルですが、物はいいですみたいな白シャツを着て、グレーのシルクのズボンはいてる。そして金髪 に碧眼 。完璧 やな。
しかも左手の薬指 に、神楽 遥 は指輪 をしていた。
元々 していた。神父はしてんねん。その聖職 を示 す、教会 との結婚を示す誓 いの指輪 をな。
でもそれは、そういうのやなかった。金の指輪で、教会とは関係ない。
もともとそこにしてたらしい指輪の痕 を隠すように、新しく填 ってる、まるで昨日買いましたみたいな真新 しい輪っかやった。
「定休日 って、なに?」
俺は念 のため、もう一度、藤堂 さんに訊 いた。
「どしたんや、亨 。ただいま日本語勉強中か?」
にこにこ笑って答え、藤堂 さんは葉巻 を吸 っていた。
もう食い終わったらしい。皿は片付き、紅茶のカップだけが残されていて、俺が最後に気がついた時、もう結婚指輪の痕 もなくなっていた左手の薬指 に、金の指輪をしていた。
あのね。そんなのね。したことないよね。あんたはね。
俺といたとき、したことなかったですよね。お揃 いの指輪?
してくれとも思わんかったし、そこまで強請 ったこともないけど、その前の段階からして渋 っていたよね。
ラブラブ? そんなもんありません。
ほんまにね、愛してたか? 俺のこと。
「休暇 ?」
思わず難 しい顔になり、俺は訊 ねた。藤堂 さんに。
「そうや。そうとも言う。よう知ってるな」
今度は藤堂 さんが答えた。にこにこ意地悪 そうに。
「知ってるわ。何年日本に居 ると思てんねん。お前より長く居 るんやで。ただ、びっくりしただけや。いつからその単語、お前の辞書に載 ってんねん。休暇 、定休日、休み。そんなの前は載 ってへんかったやんか?」
思わず恨 みがましく言うてもうてから、俺は気まずくなってアキちゃんを見た。
アキちゃんは、怒ってはいなかった。でも、言わんほうがええのにみたいな顔をして、渋 そうに紅茶 を飲んでいた。
「最近、新 たに掲載 された新単語 やねん。俺もいっぺん死んだしな。これでもう第二版 やから……」
誰もいないほうに、ふはあと煙 を吐 いて、藤堂 さんは紅茶 を飲んだ。
「ずいぶん改訂 されたんやなあ……」
しみじみ寂 しい気がして、俺は感想を述 べた。
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