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16-9 トオル
「マスターが言うにはな、あの絵は帰りたがってるらしいですわ。アキちゃんのところに。せやから先生に返してやらなあかん。そんな絵描けるんやから、先生は絵描きになったほうがいい。あんな雄弁 な絵は、俺は見たことがない」
ふっふっふと藤堂 さんは笑った。
アキちゃんは照 れたような難しい顔をして、うつむいたまま黙 っていた。
「持って帰ってください、チェックアウトするときに。それまでの間は、あの、人の気も知らんかった悪魔 に、せいぜい見せ付けとくから」
「い……嫌 です。絵は外してください」
慌 てたふうに、神楽 遥 が頼 み込んでた。
「何が嫌 やねん。外 しても置くとこないやろ、あんなデカい絵。どうせちょっとの間やないか。いつごろお発 ちになるんですか、先生」
にこにこして、藤堂 さんはアキちゃんに訊 いた。
「わかりません。仕事が終ったらです。大崎 先生にでも聞くしかないか……」
ちらりと神楽 遥 を見て、アキちゃんは、お前は知ってんのやろという顔をした。
そうやった。神楽 遥 は、鯰 がらみの予言 を握 ってるヴァチカンからの派遣 で来てるんや。詳 しい事を知らんわけがない。
「近々 です」
言いにくそうに、神楽 遥 はアキちゃんの視線に答えた。
「予言 には、この八月としか、記されていなかったようです。大崎 氏が地元の予知能力者を動員 して、鯰 が出現 する日を特定 させようとしています」
「分かったんですか、その日」
「八月二十五日です」
けろっとして神楽 遥 は言うた。深刻 な顔やったけども。
今まで、なんで言わへんかったんや。
「四日後やないですか」
アキちゃん、心底 驚 いたような顔やったわ。
「そうです、しかし、予知 やなんて。実際にその日が来るまで、当たるかどうかわかりません」
渋々 そう言う神楽 遥 に、アキちゃんは難しい顔をした。
「誰が予知 したんです?」
「海道 蔦子 さんです」
えっ。蔦子 さん?
そんなん、これっぽっちも言うてなかったで。
「なんで、黙 ってたんですか、神楽 さん。言うてくれてたら、何か準備のしようもあったんやないですか」
アキちゃんもさすがに、眉間 に皺 寄 せて、険 しい顔をして訊 いた。神父はそれに、たじろぐ気配もなく答えた。
「皆が信じると、それが実現する確率が高くなるので、部外秘 にという事やったんです。でも、本間 さん。僕にはピンと来ません。奇跡 や予知 というのは、神が与えるもので、人が起こせるものやないです。海道 蔦子 さんは、一体、どういう理屈 でそんな奇跡 が起こせるのですか。あなたも、天使を見たというけど、信徒でもないし、なぜそんな人のところへ、天使が降臨 するんやろ」
神楽 遥 は、恨 みがましかった。
それは、こういうことやった。
なんで神父として、神と教会に人生捧 げてた自分のとこには、天使は現われへんかったのに、お前みたいな蛇 飼 うてるエロ男のところに現われるんやろ。納得 いかへん。ということ。
「それは……その天使が、俺と縁 のある奴 やったからです。別に、キリスト教の神さんだけが、唯一 の神やないでしょ。蔦子 さんはほんまに、未来を予知 する力があるんやないですか。うちはそういう血筋 なんです。天地 と交感 して、力をもらって、その、いわゆる神通力 というやつを、使えるんです」
「それは異端 です」
ムッとして、神楽 遥 は答えた。
でも、否定してるというよりは、ただゴネてるみたいやった。
アキちゃんは、困 ったなあという顔をした。
そして、なにか描くもの持ってませんかと、誰にともなく訊 いた。
あいにく誰も持ってへん。しかし気の利 く藤堂 さんが、執筆中 らしいマスターに、メモ帳借 りるでと言いに行き、マスターはどうぞと言うて持っていかせた。えらい、勝手知ったる他人の店やなあ。
いわゆるリーガルパッドやった。薄黄色い紙に、罫線 の入ってるメモ用紙。
日本ではあんまり見ないけど、欧米 では定番 。その辺も、さすが英国人の店というか、さすが神戸というか。
アキちゃんは見慣れへんその紙をもらって、深い緑色の塗装 をされた消しゴムつきの鉛筆 で、何かを描き始めた。
その手元を、神楽 遥 はじっと見ていた。
黒い蝶 やった。丸い目のような模様を、翅 に持っている。
鉛筆の濃淡 で微妙な陰影 のついた絵姿 は、ものすごく写実的 で、まるでその紙に貼 り付けられた蝶 の標本 みたいやった。
丸く塗 り残された文様 のところが、紙の地色 のままの黄色で、鮮 やかに見える。
アキちゃんはそれを、あっという間 に描き上げた。それだけでも魔法みたいやと、俺はいつも思うんやけどな、この時のアキちゃんの魔法は、それだけでは終らへんかったんや。
仕上がった蝶 の絵の、鉛筆 の粉を吹き払うように、アキちゃんはそうっと、絵に息を吹きかけた。
ふうっと吹かれて、黒い蝶 はびっくりしたみたいに、翅 をそよがせ、ふわりと紙から飛び立った。
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