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16-10 トオル
はためく黒い翅 の色は、鉛筆 のタッチもそのままの、絵の蝶 やった。
それが黄色い目を閃 かせ、ひらひらとテーブルの上を舞い、そんな馬鹿なという形相 の神楽 遥 の目の前を、これでどうやと見せ付けるように、行きつ戻りつした。
「すごい、まさに奇跡 や」
驚 いたような、いかにも嬉 しいという声で、藤堂 さんが褒 めた。ようやったと、おとんが息子を褒 めてるような声やった。
アキちゃんはそれに、にやりと苦笑のような、堪 えた笑みをした。
ほんまはにっこり笑いたいんやないか。なんかそんな感じ。
嬉 しいんか、このおっさんに褒 められて。
いったいアキちゃんの脳みそは、どういう造りになってんのかな、神経おかしい。
「こんなのは、奇跡 では、ありません。ただの幻覚 です」
往生際 悪く、神楽 遥 は苦虫 噛 み潰 したような顔をしていた。
そんな元・神父に、そんなことない、俺は触 れるよと言うように、蝶 はひらりと舞い降りて、テーブルの上にあった神楽 遥 の白い手に、そっと止まった。
触 れる感触 があったんやろう、神楽 遥 の手が、ぴくりと震 えた。
「奇跡 と、ただの幻覚 って、どう違うんです?」
アキちゃんは、困 ったなあという顔で、わなわな来てる神楽 遥 の顔を見た。
「信仰 の、ある・なしです」
断言 する神楽 遥 は、それ以上は何か言う気配もなかった。
ただじっと、手の蝶 を振り払いたいのを耐 えてて、それで精一杯 ですという感じ。
そんな相方 の顔を、やれやれみたいに眺 め、藤堂 さんが代わりに話した。
「キリスト教の神の奇跡 はな、信仰 深い者だけが起こせることになっとうのや。天使もまあ、基本的には信者の前にしか現れへん。でも例外はあるはずやで。神がその存在を異教徒 にも証 そうというときに、誰の目にでも奇跡 は見えへんとおかしい」
そうですよね神父さんと、藤堂 さんは相方 に話を促 した。それで神楽 遥 は、口が利 けるような気になったらしい。
「そうです……そういう例は、確かにあります。キリスト生誕 の時には、天空 に天使の群 れが現われて、神を讃 える歌を歌うのが、信者ではない者の目にも見えました。その時にはまだ、キリスト教は宗教としては存在しなかった訳ですからね、信者はいません。それでも近隣 にいた羊飼いたちには、その天使が見えました。聖書にはそう記 されています」
「ほな、ええやん。本間 先生に天使が見えても」
そんな小さいことに拘 ったらあかんでお前と、そんな口調で藤堂 さんは神楽 遥 を宥 めていた。
しかし、そんな藤堂 さんを、元・神父はじろっと睨 んだ。
「いいえ。天使の降臨 はともかく、奇跡 を起こせるのは神に選ばれた信仰 篤 い者だけです。それ以外は皆、悪魔 が仕掛 ける妖術 です」
悪魔 や言われて、アキちゃんは少々引いていた。
それでちょっとだけ言いよどんだけども、結局言うてた。
「妖術 ……やと思いますけど、なんか、まずいですか。それやと」
ちょっとビビってるみたいやった。なんでビビんの、この元・神父に。
信者でもないし、キリスト教なんかほとんど知らん、クリスマス・イブに女とホテル泊 まって、セックスしようみたいな男がやで、何を恐れることがあんの。
そん時にはまだ敬虔 な信者やった藤堂 さんが、何してたと思うんや。
家族で教会行ってたんやで。真夜中のカトリック教会に。
クリスマスのミサに列席 するためにやで。
そしてまた仕事に戻り、俺をほったらかしにしていた。その隙 にお前が俺をゲットしたんやないか。
クリスマスに人間がやることとしては、最もキリスト教の信仰から遠い。
救世主 の生誕 を祝う聖なる夜に、てめえは悪魔 を口説 いてたんやから。思いっきりの反 キリストや。
そして極東 の島の妖術 使いですよ。まさにそれです、アキちゃんは。キリスト教、一切関係なし。
家は神道 、おかんは巫女 、おとんは大明神 、そして本人も覡 や。クリスマスはサンタクロースの日やと思うてる。
だってホテルのバーで飲んだくれながら、アキちゃんはいろんな愚痴 を吐 いていたけど、うちにはサンタが来たことがないって言うてたもん。
サンタなんかいまへん、迷信 どす、っておかんが一蹴 して、クリスマスはなんもなし。代わりに正月に新しい服と玩具 をもらえたらしい。
別にええけど、うちは普通やない。なんでそうなんやろ。普通のうちのクリスマスには、サンタが来るもんやろ、とアキちゃんは俺に言うてた。
しゃあない。悪い子やから来 えへん。
それに、あれは普通、おとんが化 けるもんやろ。
おとん、居 らへんのやからしゃあない。
居 ったけど、おとん大明神 がサンタに化 けて出たら、それはそれでアキちゃん怖かったやろ。サンタなんか居ないって、ほんまは知ってたみたいやから。
信じてへんから来 えへんのんや。
あれの中身はおとんやと、お前が知ってたからあかんねん。
信じてれば、来たかもしれへんで、サンタクロース。信じてる子のとこにしか、あの爺 は現われへんねん。
そういうもんやろ、神や怪異 というのは。
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