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17-8 アキヒコ
そうやな……止まってる船で酔 うなんて、そんな話、聞いたことない。
しかし水煙 は、聞いたことあるらしかった。
アキちゃんそっくりやなあジュニアと、水煙 は嬉 しいんか困 ってんのか分からんような口調で言うた。
お前のおとんもな、軍艦 乗った瞬間に吐 いてたわ。格好 悪かったなあ、おかんに黙 っといてやれよ。なんで覡 が船に酔 うんやろうなあ。一種の遺伝的 トラウマとちゃうか。昔は船に乗ってた覡 は死ぬこともあったから。相性 悪いんやろうと、水煙 は笑いながら俺に教えた。
なんで、船に乗ると覡 は死ぬこともあるんやろ。
俺は朦朧 としつつそう思ったけど、そんな豆知識 を仕入れようという余裕は皆無 やったわ。
とにかく仕事しよ。それで一杯一杯やから。俺は吐 かへん。おとんはゲロったんかもしれへんけど、俺はそれの上を行く男になるから。吐 いたりしいひんしな。
俺はくすくす笑っている水煙 の柄 を握 り直した。噛 むぞ、水煙 。俺を笑うな。俺がそう命じると、水煙 はその命令を聞いたのか、それともビビっただけか、ぴたりと笑うのをやめた。
「平気ですか、本間 さん……」
笑いたいけど、笑ったら可哀想 やしっていう目で、神楽 さんは俺を見ていた。
「平気ですよ、もちろん。さっさと行って片付けましょうか」
俺が吐 く前に。そう目で訴 えると、神楽 さんは頷 いた。
そして甲板 をすたすた行って、船室に続く白い扉 に手をかけた。
念 のためやろう。神楽 さんは瓶 から聖水 をちょっとだけ扉 の周囲に撒 いていた。そこから何か悪いもんが出てきても、外には漏 れへんように。
正しい判断やったと思うわ。
扉 を開くと、そこから猛烈 な勢いで何かが漏 れてきた。濃 い紫色 をした、光を通さない暗い靄 のようなもんが。そして見えない壁 に押し込まれたように、扉 のすぐ外までで停止した。聖水の結界 が効 いている。
それはまるで薄められた闇 みたいに見えた。吹き出た煙みたいなそれに、神楽 さんがあっと言う間に包 まれてもうて、俺は一瞬ぎょっとしたけど、当人は平気な顔をしていた。
「行きましょう、本間 さん」
暗い靄 の中から俺のほうを振り返り、神楽 さんは誘 った。
その中は修羅場 ではないかと、俺は想像していた。
でも、そうやなかってん。確かに暗かった。深い濃霧 に包 まれて、ほとんど夜のように見える異界 に堕 ちていた。しかしそれは夜のクラブか怪 しげなバーの、照明を落とされたダンスフロアのようにも見えた。
音楽が鳴り響 いていた。外からは全然聞こえへんかったのに。ものすごく速いテンポの、テクノ系のダンスミュージックみたいやった。
フロアの向こう側に、綺麗 に着飾 った結婚式の客らしい人たちが、吹き寄せられた難民のように身を寄せ合って、壁際 の床 にへたり込んでいた。
その中には真っ白なウェディングドレスを血に染めた、見るからに深手 と分かるような花嫁さんが座り込んでいて、それよりもさらに手ひどくやられたらしい新郎が、ぐったりと横たわっていた。
血の臭いがする。
フロアには両腕を血に染めた骸骨 がいた。踊 りながら。狂 ったように。まるで夢中で踊 っている。
踊 る骨はそれひとつきりではなく、フロアに何体いたやろか。十か、十五か、数えてない。
ちょっとレトロなダンスミュージックを聴きながら、俺は踊 る骨を見てた。
その肋骨 剥 き出しの人垣 の向こうに、DJブースがあって、ノリノリやっていう、うっとり顔した若い男が、イコライザのある盤面 を小さく叩 きつつ、鼻歌を歌っているようやった。
そしてそいつはおもむろに、携帯電話を取り出して、それを耳に当てていた。
リズムをとるように揺 れる、その横顔を見ながら、俺は自分の電話が振動 するのを感じ取り、それが誰からの電話なのか、不思議 な確信を持って受信ボタンを押していた。
『もしもし、初めまして。湊川 です、本間 先生』
うるさい音楽にも紛 れず、男の声ははっきり品 良く耳に響 いた。
『あのね、そっちに行かれへんのです。途中の異界 が濃 すぎてね、並 みの人間には渡られへん。渡ってきてもらえませんか。新郎さん、死にそうやねん』
全然大変そうではなく、その男は話していた。人が死んでも平気やと、そんな感じの話しぶりやった。
そやけど一応、助けは求めてる。生きても死んでもどうでもええけど、どうせやったら助けたらどうやろかって、そんな程度 のドライ感。
これは人ではないんやろうと、俺は思った。人間がそんな、人の生き死ににドライでいていい訳ないしな。
「お前、誰やねん。なんで俺のこと知ってるんや?」
『俺は、海道 蔦子 さんの式 です。いやあ、それは今イチ、微妙 なとこです。スカウトされとうけども、踏 ん切 りつかんで交渉中やねん。でも、信太 のツレはツレです。友達なんや』
電話の話す声と、まったく同じように話す口で笑い、踊 る骸骨 の対岸 にいるDJブースの男は盤上 の箱から煙草 を一本とって、それを銜 えて火をつけた。
ふはあと吐 き出す煙が、黒くたれ込める闇 の中でも、輝くような文様 を描いて渦巻 き、いつまでも消え残っていた。
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