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18-14 トオル
「そんなアホな、でしょうかね。そう思えるのはあなたが幸せだからです。たとえば昔、気がついたら奴隷 の生まれで、一生どこかの坑道 や、船倉 の底で強制労働させられたりとかですね、あるい娼婦 で、死ぬまで客の相手をさせられるような一生を生きるような人生だったら、たとえこの世はつらくても、死ねばあの世は天国と、そういうふうに思いたい人もいるでしょう。そんな天国は妄想 かもしれませんが、それを必要とする人々もいるんです。この世は苦しいけども、これは原罪 を購 うためで、死ねば終わりだと、そう思ってほっとしたい人もいる。もう二度と、この世に蘇 っては来ない、期待どおりの天国で、今の自分のまま永遠に生きられるんだと、そういう救いもあるわけです」
にこにこ話す餅 を見て、アキちゃんは分からんという顔やった。
アキちゃんは賢 い子やし、話の意味は分かるんやろけど、なんでその話をされるんか、それが分からんのやろな。
「どういう意味です? 一体何が言いたいんですか」
顔をしかめて訊 ねるアキちゃんに、大司教 様は秘密を話した。
「死のほうが現実なんです。残念ながら、人は死ぬんです。それをどう解釈 するかが教義 です。天国あるから平気やと、そういうふうに言うことはできます。けどね、それは、気休めです。そうでも思わな、どうしようもないからです。死ぬもんを救うことはできへん。それは奇跡 や。人間には無理なんです」
神でないとね。
餅 の神父はひそひそ話 の真似 をして、皮肉 めかしてそう言うた。
キリスト教の教会にはな、階層制度 がある。会社みたいなもんや。
大司教 言うたら、偉いサンやで。誰でもはなられへん。神楽 みたいなアホやとなられへんねん。馬鹿正直に通り一遍 の教義 を信じてたらなられへん。これは仕事やと割り切って、性根 を据 えたビジネスマンとか政治家みたいな奴でないと、ヴァチカンの上のほうには行かれへんねん。
そして餅 は大司教 やった。出世街道 まっしぐら。ヴァチカンの玉座 から連 なる神聖な位階 を、上り詰めていくおっさんや。ちょい悪 なエリートなんやで。無害そうな見かけによらず。
「神の思 し召 しに逆らったらあきません。せやけど、あんたは異教徒 や。異教 の神官やからな、そんなん関係あらへんでしょう。救えるようなら救ってください、もののついでに。死すべき魂 でも、何かの間違いで助かってまうかもしれへん。神にもいろいろあるようやから。どうせやったら刑期延長 で、天国行きはまたこんど……慣 れたら楽しい監獄 暮らしという説 もありますやろ」
そう語り、餅 はまたごくごくとビールを飲んだ。
神楽 遥 は、それをぽかんと眺 めてた。蔦子 さんは、じとっと見つめてた。
「そんなこと言うて、大司教 様。うまく行ったら、成果はそちらのもんやって、そういう契約 にしてはりますやろ」
蔦子 さんがぶつぶつ指摘した。
「そらあ、そうです。奥様 。もしも何か奇跡 が起きて、人々が救われたならば、それはうちの神さんの思 し召 しに違いないです」
ふっふっふと可笑 しそうに笑い、餅 はさらにもう一杯のビールを狐 に要求する手つきやった。
秋尾 さんは愛想 よく酌 してやってた。この人、伏見稲荷 の系列の、下 っ端 の狐 らしいんやけど、そんなんが酌 した酒でも別にええのかな。神楽 なんか、俺はともかく水煙 とさえ、口利 くの嫌 やって言うてたけども、たぶん秋尾 より水煙 のほうが、よっぽど強い神さんなんやで。
「狡 おすなあ……なんもしてへん、予言 だけやのに」
感心したという声色 で、蔦子 さんが餅 を罵 った。
「なんも、って、金は出すやないですか。それかて善良なる信者からの貴重な献金 なのですよ、教会の金や。おろそかにせんといてください」
「そら、そうやろけども。成果は全部取りやなんて……」
蔦子 さんは渋々 やった。餅 はそれにも、気味良さそうに、太った僧衣 の体を揺 らして笑っていた。
「折半 してもええけども、奥様 、今のこの日本でですよ、巫女 やら覡 やら陰陽師 やらが、力を合わせて戦って、地震起こした鯰 をやっつけましたて言うて、誰が信じます? 言うだけ無駄 ですわ。キリスト教社会でなら、神戸 の奇跡 ということで、まだまだ通用しますけどね。都合よく、天使の一人でも現れて、それが普通の人らにも見えてくれたら万々歳 」
三杯目のビールを飲み干して、餅 は祈 る口調で言った。
「天使といえば、霊振会 のモンにも、天使がお告げに現れたというのが居 りますえ。神 の戸 の、岩戸 がなんとか……あんたも見たんやろ、坊 」
アキちゃんの前のテーブルをばしばし叩 いて、蔦子 さんは急 かすように訊 いた。それにアキちゃんは、痛いところを突かれたような顔をした。
その天使って、勝呂 やな。勝呂 瑞希 。まだ天使やった頃のあいつなんや。
そういえば、あいつが居 るやん。水煙 言うてた。あいつを生 け贄 にすればええんやって。
そうやん、それがあったやんか。ナイスアイデアですよ。こうなるともう、あいつが一番無難 やで。
狐 死んだら大崎 先生困 るしな、俺が死んだらアキちゃん困 るし。信太 死んだら鳥さん困 るやろ。
けど、勝呂 が死んでも、誰も困 らへん。あいつが死ねばええんや。
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