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18-22 トオル

「あの絵ねえ、そろそろ見飽(みあ)きたんで、()てようかな。俺もあの絵の(へび)には、ほんまにひどい目に()うたんですよ。腹立つし、めちゃめちゃ(やぶ)いて燃やしてまいましょうか」 「よせ! 絵に罪はないやろ!」  ひどいこと言う、藤堂(とうどう)さん。よくも俺の目の前で。  そして大崎(おおさき)(しげる)も、なんでか知らん、ギャアってなってた。 「聞いたんですよ……西森(にしもり)から。ご存じでしょう、先生も。あの祇園(ぎおん)画商(がしょう)の男ですよ。大崎(おおさき)先生、本間(ほんま)先生のファンなんでしょ」  アキちゃん、ぶうってジンジャーエールを吹きそうになっていた。可哀想(かわいそう)に。  ほんまはビール飲みたいのに、運転せなあかんからジンジャーエールで我慢(がまん)してる。それをやっと飲もうとしたら、今度は吹かされて気道(きどう)に入った。しかも炭酸なんやからつらい。げっふんげっふん言うてるアキちゃんの目の前で、(じじい)若干(じゃっかん)、赤くなっていた。 「誰がファンやねん! この若造(わかぞう)が、()け出しで可哀想(かわいそう)やから、目ぇかけてやっとるんやないか!」  いきなり退路(たいろ)なしやで、大崎(おおさき)(しげる)。なんでそんな(あわ)ててんのやろ。  たぶん、藤堂(とうどう)さんが、もっと何か言いそうな、意地悪(いじわる)そのものの顔してたからやろう。 「他にもね、聞いたんですよ。大崎(おおさき)先生、ずっと前から探してる絵があるらしいですよね。所蔵(しょうぞう)してへんかって、西森(にしもり)にも()かはったとか」 「な、なんや……知ったことか。(わし)好事家(こうじか)なんや。絵を集めんのが趣味なんやで。探してる絵くらいあるわ」 「その絵の画家の雅号(がごう)は、暁雨(ぎょうう)というらしいです。探しに来た秘書(ひしょ)の子が、いろいろ(しゃべ)っていったらしいですわ」  あ(いた)ぁ、っていう気配(けはい)のため息を、口を(おお)った(きつね)()いた。  大崎(おおさき)(しげる)はそれを鬼のような目して(にら)み、秋尾(あきお)、と、(うな)るように呼んだ。せやけど、口の軽かったらしい(きつね)は、ブルってもうてて一言も答えられへんかった。 「暁雨(ぎょうう)って、アキちゃんの雅号(がごう)やわあ」  空気読めない蔦子(つたこ)さんが、泣き()れて益々(ますます)色っぽさを()した()睫毛(まつげ)のまま、小さく(はな)をすすってビールを()めていた。  たぶん言わんでええことやった。大崎(おおさき)(しげる)にとって。 「(しげる)ちゃん、なんでアキちゃんの描いた絵なんか探してんのや。(きら)いなんやろ、あの子のこと……ほんまは好きやったん?」  とろんと言われて、大崎(おおさき)(しげる)暴発(ぼうはつ)していた。 「好きなわけあるか! あ、あ、あいつな……勝手に絵描いて売りよったんや!」  幼馴染(おさななじ)みのお姉ちゃんに、あの子が憎いとチクるノリで、大崎(おおさき)(しげる)は話してた。 「勝手にって、アキちゃん、何を描いたん?」  知りたいわあ、って、蔦子(つたこ)さんは無邪気(むじゃき)なもんやった。この人ちょっと、天然(てんねん)入ってるところあるんやろなあ。アキちゃんにもあるもん。おかんにもあるしな。きっとそれが秋津家(あきつけ)の血なんやで。 「妖怪図(ようかいず)や。白狐(びゃっこ)の絵やないか。こいつな……」  横にいる秋尾(あきお)を指さして、大崎(おおさき)(しげる)はぷんぷん言うた。 「俺がどんなんしてやっても変転(へんてん)しいひんのに、アキちゃんが肩に(さわ)っただけで、白狐(びゃっこ)変転(へんてん)したんやで。どう思う。伏見権現(ふしみごんげん)の言いつけやなかったら、俺よかアキちゃんに(つか)えたかったんや。絶対そうやねん」 「そんなことない、先生。そんなことないですよ。先生が世界一やから」  (きつね)は必死でヨイショしてたけど、大崎(おおさき)(しげる)(いや)やみたいに首を横に振っていた。 「エロ(くさ)い絵なんですよ、奥様(マダム)。その(きつね)の絵ね」  わざわざ席を立ってまで、藤堂(とうどう)さんはテーブルごしに、蔦子(つたこ)さんに(しゃく)をした。その(あや)しい感じのする目を見上げ、蔦子(つたこ)さんは、まあ、ええ男やわあみたいな顔をした。 「なんでご(ぞん)じなんどす?」 「持ってるからですよ、そんなん決まってるやないですか」  まさに(えん)とは()なものやった。藤堂(とうどう)さんは気持ちようてたまらんみたいな顔をして、また席に戻った。  それを(なが)める大崎(おおさき)(しげる)(あご)は、がくんと落ちていた。 「ずうっと前にね、俺が仕事で京都に移ったばかりの(ころ)です。東山(ひがしやま)(ぼう)ホテルに()りまして、そこの絵を買い付ける(えん)で、画商(がしょう)西森(にしもり)という男と知り合いまして、俺の仮住(かりず)まいのマンションが殺風景(さっぷうけい)やなあということで、絵を買え言うんです。それで、仕事でギャラリーに寄ったついでに、自宅用のも()うたんですよ。その(きつね)の絵ね、部屋には合わんかったんですけど、どうしても気になる変な絵でね。なぁんとなく()うたんですよ」  店が出してた突き出しのピスタチオを、藤堂(とうどう)さんはにやにや割った。器用(きよう)そうな指やった。  実際、器用(きよう)やで。ただ豆の(から)割ってるだけやのに、なんとなく、手品師(てじなし)の指先みたい。その優雅(ゆうが)な手つきを、蔦子(つたこ)さんはじっと面白そうに見ていた。 「(しば)ってあるんですよ、(きつね)」  苦笑して、藤堂(とうどう)さんはピスタチオを食うてた。 「しごきっていうんですか、着物の帯やと思うんやけど、七五三のときに、うちの娘も使ってました。真っ赤な薄い帯やねんけど、それで(きつね)(しば)り上げられてる絵なんです。エロティックでねえ。しかもそれが、夜中になると、くんくん鳴くようです。ちょっと、(せつ)ないみたいにね」 「そんな絵やとは聞いてへん……」  わなわな来ながら大崎(おおさき)(しげる)はビールを飲んだ。  せやけど飲んでるようには見えへんかった。飲んでるフリしてるだけやねん。

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