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19-4 アキヒコ

 (きば)が抜かれた傷口を、白い舌が最後にひと()めすると、傷は見る()(ふさ)がった。便利な体や。()まれた(あと)さえ残らへん。 「お前の血は美味(うま)い……アキちゃんのより」  うっとりした顔で、水煙(すいえん)はたらふく食った後のように、(ひざ)の上にあったバスタオルの(はし)っこで、口元を優雅(ゆうが)(ぬぐ)った。今度は食事用のナプキンでも用意しといたろか。 「(しび)れるような甘露(かんろ)や。人の血と思われへん」  血液評論家(ひょうろんか)?  水煙(すいえん)真面目(まじめ)な顔して、俺を美味(うま)い物のように言っていた。  それにどうリアクションすればええんや。俺は返答に()まったまま、(こま)って籐椅子(とういす)にいる水煙(すいえん)を見下ろした。  水煙(すいえん)はそれに(あわ)く微笑み、俺に教えた。 「秋津(あきつ)の家は昔から、神仙(しんせん)に近づこうと血を()り合わせてきた一族や。言うなればお前のような子は、そのひとつの成果(せいか)やけども、せっかくそんなのが生まれてきた時に限って、世の中がこんなふうになっているとは、皮肉(ひにく)なもんや。神代(かみよ)の昔とまでは行かずとも、人心(じんしん)にもっと信心(しんじん)のある時代なら、お前はきっと、(すぐ)れた(げき)として、この島を牛耳(ぎゅうじ)るような立場に立てたろうにな」  それが()しいというふうに、水煙(すいえん)は俺を(あわ)れむような、(いと)しむような顔をした。それは、うちの家に()いている、血筋の守り神の顔かもしれへん。 「そんなもんに、なりたない。俺は絵描きになりたいねん、水煙(すいえん)。それやと、あかんか?」  水煙(すいえん)はまだ、俺の手を(にぎ)ったままやった。俺に期待をかけているらしい水煙(すいえん)にも、済まない気がして、俺は後ろめたく()いた。 「あかんことない。好きなもんになればええよ」  あっさり許して、水煙(すいえん)は少し皮肉(ひにく)(かげ)のある笑い方になり、俺から目を()らしたまま話を続けた。 「ヘタレの(しげる)が言うように、もはや秋津(あきつ)も落ちぶれたしな、それも俺の(いた)らなさやろう。権勢(けんせい)(ほこ)った世もあったけど、それがほんまに幸せか、わからんようになってもうてな。()らんのやないか、天地(あめつち)や神と(わた)り合うための力なんぞ、いっそないほうが、お前の一生は幸せやったんやないか?」  (こま)ったように俺に()水煙(すいえん)は、俺とだけ話している(わけ)ではないような気がした。  俺のおとんや、その前の、さらにその前の、水煙(すいえん)の使い手だった、秋津(あきつ)(げき)と話してる。俺の血の中にいる、それの名残(なごり)と。 「そうかもしれへん。それはそれで幸せやったやろ。せやけど今から、何もかも捨てて、(とおる)やお前と会う前の、元の自分に戻れと言われても、俺は(いや)やで、水煙(すいえん)」  (うそ)でもなんでもない本心(ほんしん)で、俺は答えた。  すると水煙(すいえん)は、自分の手の中にある俺の手を見て、にやりと暗い笑みを見せた。  そこには指輪が(はま)ってる。それは水煙(すいえん)とではない、他のやつとの誓約(せいやく)(あかし)や。 「そうやろうな」  お前は(へび)と交わって、それで満足なんやろうからなと、水煙(すいえん)はそういう(ふく)みで答えてた。  そしてやんわり、俺の手を(にぎ)っていた指を離した。それが何か、捨てられたような心細さで、俺はちょっと、内心(あせ)ってたかもしれへん。  でなきゃ、言わんやろ、こんなことは。 「そういう意味やないよ。(とおる)のことも、そりゃそうやけど……俺は秋津(あきつ)の家を愛してる。こんな家、普通やないわ、(いや)やって、(うわ)(つら)では思うけど、それでも家を出ようと思ったことはないやんか。結局、好きやねん。ここで幸せになりたいんや。俺も立派(りっぱ)跡取(あとと)りと、お前や、おかんに認められたい」  ずっとそれが、俺の本音(ほんね)のところやねん。  せやけど俺は不甲斐(ふがい)ないやろ。秋津(あきつ)(ぼん)は、ぼんくらやねん。餓鬼(がき)の頃から、ずっとそう言われてた。自分でも、そんなような気がしてた。  普通がええねん、皆と同じのほうがええんやって駄々(だだ)をこねつつ、それでも、ぼんくらなんやてと陰口(かげぐち)きかれると、ものすごく(くや)しかったんや。  矛盾(むじゅん)してる。俺は結局、どうしたかったんやろ。  たぶん、亜里(あり)……ではない。(せい)スザンナ。が言うてたように、俺は自分の好き放題(ほうだい)に絵を描いて、それを皆が愛してくれる、そんな()(まま)な生き方をしたいって、ずっと願ってきたんやろ。  そやけど、それは無理やって、(ため)してみずに(あきら)めてきた。  自分の力を人に見せてみて、お前は人間やない、化けモンやないかって、(きら)われるのが怖かったんや。  愛されたかってん。月並(つきな)みやけど。そういう意味では、俺も普通の餓鬼(がき)やった。皆、俺を愛してくれよって、(さび)しかったんや。  俺に何も、求めんといてくれ。ありのままの俺を、愛してほしいねん。  でもそれは、ほんまに()(まま)や。お役に立たねば、ただの化けモン。ただの外道(げどう)や。  大崎(おおさき)(しげる)の言うように。そんなモンを、ただで世間(せけん)が愛するはずない。  俺は巫覡(ふげき)や、ええモンやねんで、三都(さんと)を守って戦っている、みんなの幸せを命をかけて守っている、秋津(あきつ)の血筋を受け継いだ、その血に恥じひん跡取(あとと)りなんやと、我が身の(あかし)を立ててこそ、俺は世の人に一目(いちもく)置かれ、愛される資格を持った(もん)になる。 「(りゅう)調伏(ちょうぶく)するんや、ジュニア」  水煙(すいえん)は俺を(さと)す口調で、ゆっくりとそう教えた。 「(りゅう)(わた)り合え。そして、それを調伏(ちょうぶく)できたら、誰もお前をぼんくらやとはもう言わへん。登与(とよ)ちゃんも、お前を秋津(あきつ)跡取(あとと)りと、認めざるを()ないやろ。蔦子(つたこ)(しげる)かてそうや。お前を知ってる誰もが認める。お前が人並(ひとな)(はず)れた比類(ひるい)ない男で、三都(さんと)(なら)(もん)のいない、巫覡(ふげき)宗主(そうしゅ)やということを」  俺を見上げて、水煙(すいえん)は黒く()み切った目をしていた。  俺にはそれができるんやと、信じているような目やった。

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