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19-7 アキヒコ

 おかん、『ガラスの仮面(かめん)』は俺の蔵書(ぞうしょ)やない。(とおる)のや。  トラッキーもそうや。それに俺はアロハは着ない。どうか(たの)むし誤解せんといてくれ。  (とおる)はずっと俺のうちに()るんやって、そう思ってたから、トラッキー()うてええかて言う(とおる)に、しゃあないなあって言うたんや。だって本気で欲しそうやったんやもん。  ほんまにお前は俺の人生に様々(さまざま)の、意外なものを持ち込んできた。海原(かいばら)遊山(ゆうざん)とか北島(きたじま)マヤとかトラッキーとかや。  それに愛とか、プラチナの結婚指輪とか、萬養軒(まんようけん)のカレーとかや。  そんな、お前がおらんかったらありえへんかったものが、()(がら)みたいに俺の(うち)に残る。それだけを残して、自分も(とおる)もあのマンションから消える。そんな未来を想像すると、途方(とほう)もなく(さび)しくて(から)っぽすぎる。  楽しくて、アホみたいやった気楽な日常が、あっと言う間にただのゴミや。お前がいなかったら、それには何の意味もない。(から)っぽのゴミや。  もう一度、あの家に帰りたい。(とおる)を連れて、いつものように、ドアをくぐって、ふたりで住み()れた、(なつ)かしいあの家に。  でも、もう、帰られへん。()(にえ)なって死ぬつもりやていうんやったら、俺はもう、あの家に帰らん覚悟(かくご)を決めなあかん。  それが死というもの。ふらっと出ていき、もう戻れへん。毎夜、(とおる)と抱き合って寝た、あのベッドには、俺はもう二度と横たわることはない。  それが死や。  まだ抜き身のままの水煙(すいえん)を、居間(いま)のソファに残していって、装飾用(そうしょうくよう)の壁で仕切(しき)られた向こう側にあるベッドを(のぞ)くと、(とおる)はまだ俺に(すが)ったままのような、側臥(そくが)のポーズで眠っていた。  それがまるで、もともとは二人で寝ていた絵から、自分だけが抜け落ちたみたいに見えて、俺は内心、軽いショックを受けていた。  ベッドに(あが)って、(とおる)(ほほ)を軽くばしばし(たた)くと、(とおる)はううんと甘く苦しいような(うな)り声を上げた。それでも起きへん。しょうがないから布団(ふとん)()ぐと、びっくりしたんか、(とおる)はびくりとした。  もちろん(はだか)やねん。(はだか)のまま寝てる。  服着て寝てるとこなんか見たことがない。昨夜もいつも通り()んずほぐれつして、汗ばんだ(あし)(から)めて抱き合ったまま寝た。  いつもそうや。大体そんな感じ。新婚初夜でも何ら変わらへん。婚前交渉(こんぜんこうしょう)しすぎやねん。  寝ぼけたような、気怠(けだる)い目をして、俺を見上げた(とおる)を起こそうと思って、俺は(とおる)の白い体に(かが)み、(かた)(あご)とを抱き寄せて、(くちびる)にキスをした。  (とおる)はすぐに目が()めたんか、それでもまだ気怠(けだる)いような仕草(しぐさ)で、俺の背中に腕を回して引き寄せてきた。  そしてそのまま腰に巻いてるバスタオルを()がそうとするのを、俺は止めた。  毎朝のことや。(とおる)はいつでもやる気まんまんやけど、いちいちやってたら、やってるだけで朝が終わってまう。それどころか一日終わってまう。何日でも()ぎる。 「あかん、あかん。違うねん。竜太郎(りゅうたろう)のところに、水煙(すいえん)を届けなあかん。それから画材屋どこか()いて、紙とか買いに行きたいし、一緒に来てくれ、(とおる)」  ひとりは(さび)しいんや。ひとりになりたくない。お前と一緒にいたい。  ベッドで抱き合うのもええねんけど、ふたりで(まち)を歩きたい。一緒に絵を描きたい。なんてことない話をだらだらしたい。あと三日しかないし、俺は(あせ)ってるんや。  なんで(とら)信太(しんた)が意味もなく鳥さんを連れ回していたか、俺にはなんとなく想像がついた。  あいつはたぶん、感づいていたんやないか。蔦子(つたこ)さんの考えに、(さっ)しをつけていた。  それでも逃げも隠れもしいひんかったんやから、承知(しょうち)してたんやないか。蔦子(つたこ)さんが今度こそ自分を、(なまず)()(にえ)として(ささ)げるやろうという事を。  寛太(かんた)は知らんのやろ。震災(しんさい)の後に生まれたという話やったし、前の儀式(ぎしき)は見ていない。見てても理解できてるかどうか(なぞ)や。あいつどこまでアホなのか(はか)り知れんようなとこあるしな。  何にも分かってへん。いつもにこにこ笑ってる。それを(とら)は、(とろ)けそうな目で見てる。  あの目は実は、そういう目やったんか。  好きでたまらん、一体あと何日、これを見てられるやろっていう、そういう(せつ)ない目か。  俺もそういう目で(とおる)を見てた。  (とおる)はまだ眠いんか、泣いたような目のまま、自分を抱くように(おお)(かぶ)さる俺の顔を見上げてきた。 「画材屋? 絵描くの?」  またか、みたいな苦笑で言って、(とおる)は寝起きの(かす)れ声やった。その声はその声で、ちょっとハスキーでいい。 「せえへんの、朝エッチ」 「せえへん」  甘い声で()(とおる)に、俺は難しい顔で断言した。 「下の人にも意見を聞いてみてもええか」  うっとり幻惑(げんわく)されそうな笑みで言って、(とおる)は俺のタオルの中に手を入れようとした。もちろんそれは(こば)んだ。 「聞かんといてくれ」  (なさ)けない。そうなると自信ないしな、下の人より俺の意見を重視(じゅうし)してくれ。  俺は顔をしかめて首を横に()ってみせた。しかし(とおる)はあくまで下の人の意見を聞きたそうやった。  それをなんとか()り切って、俺はベッドの奥にあるクローゼットのところへ服を着に行った。(はだか)でいたら何されるかわからん。

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