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19-8 アキヒコ
「とっとと風呂 入って着替えろよ。一日勿体 ないからな」
俺がそう言うと、亨 は渋々 やけど頷 いて、シャワーを浴びにいっていた。
白い脚 が、暗い赤の絨毯 を踏 んでいくのが、眩 しいくらいに目に焼き付いて見える。
ほんま言うたら、俺は亨 を抱きたかった。いつまでも心ゆくまでベッドで絡 み合って、亨 を喘 がせてたい。
でも、そんなことしてたら、たったの三日なんてきっと、何も遺 さないまま過 ぎていってしまうやろ。
それはそれで、いい時間の使い方なのかもしれへんのやけどな。
いつもと同じや。いつもやってることと大差 ない。
何をすればええのか、俺には分からんのやけど、なにか、いつまでも亨 の記憶に残るようなことをしたかった。
それが何かは分からへん。とにかく、いつもはしないような事。それをずっと、亨 が憶 えておいてくれるようなこと。
そんなやつも居 たなあって、懐 かしく思い出してくれるようなこと。
それを思いめぐらすと、俺はますます焦 った。あまりにもノー・アイデアすぎ。なんにも思いつかへん。何してええやら。
窓 の外では、まだ雨が降っていた。どうやら一日、ずっと雨降るつもりらしい。今日はやるでえみたいな雨雲やった。
昨日まで上天気 やったのに、こんな時に限 って雨降るんやからな。
俺ってちょっと、雨男気味 なんかな。何となくそういう面はある。
暗くどんよりしてると、空も暗くどんよりしてきて、気分的にもじめっとしてると、雨降ってくる。泣くと豪雨 や。
餓鬼 のころに学校で嫌 なことあって、泣くもんかと思って走って帰ってくると、大雨に降られてびっしょびしょになる。
それでも泣いてへんのに、おかんに、アキちゃんまた泣いたんかと訊 かれ、泣いてへんわとキレなあかん。そしたら雷鳴 が轟 いて、怒ったらあかんえと、厳 しい顔して、めって言われる。
隠 れて泣いてもバレバレやねん。ものすごい雨が降るからな。
そのへんも結局 、コントロールできてへん。自分の感情というか、それにまつわる力の制御 ができてへん。
顔には出さんようにできても、俺の心に天地 が、共感して泣くのまでは止められへん。余計 なお世話 やというのも失礼やしな。
亨 が着替えてくるまで、俺は結局ぼけっと窓から雨を眺 めてた。
雨か、と思って。
確か蔦子 さんが昨夜、うちのおとんの雅号 は暁雨 というんやと話してた。
雅号 ていうのは、つまりペンネームやで。絵を描く時に入れる署名 に、本名でもええけど、雅号 を使う人も多い。そっちのほうが普通や。
雅号 は自分の名前とか、出身地とか、何か縁 のあるものから字をとって、それに自分の個性を絡 めて名付ける。
自分で付ける人もおるやろけど、だいたいは師匠 とか、尊敬 する心の師 に付けて貰 う。
おとんにも師匠 がおったんか。それは分からんのやけど、雅号 に雨の字が入ってんのやし、おとんも雨男やったんかもしれへん。
そうやったらええのにな。なんか親近感湧 くやんか。
そういう俺にはまだ、雅号 はない。本名で絵描いてる。
俺の場合、何が本名なのか、今イチわからへんような気もするけど、本間 暁彦 や。今まで描いてきた絵には、その名前で署名 を入れてた。
一人前やないのに、雅号 というのは生意気 かと、そんなふうに思ってたんやけどな。いつか絵描きとして一人前になったら、誰かに付けて貰 おうかって。
でもそれも、結局名無しのままやった。
なにもかも中途半端 のままで、俺は死ぬんや。そう思うと、無念 で悲しい。
「アキちゃん、行こか」
心配そうに、亨 が俺の手を引いて訊 いた。
相当 暗い顔してたんやろか、俺は。そんな湿 っぽい顔してるから、雨も止 まへんのやろ。
にこにこしてよ。せっかく神戸に居 るんやし、亨 と綺麗 な海見たいしな。
作り笑いや。満面 の笑みとはいかへん。俺はうっすらとしか笑ってなかったと思う。
亨 は余計 に心配そうな苦笑で俺を見つめ返した。
「アキちゃん、暗い顔せんといて。心配いらへん。水煙 もそう言うてたやろ。アキちゃんのことは、俺が守ってやるしな、安心しといて。大船 に乗ったつもりで!」
俺を励 まそうと思ったんやろ。亨 は嘘 くさい威勢 の良さやった。
俺はそれに苦笑で答えた。
「船酔 いすんのにか?」
「ああそうか……じゃあ、なに? 装甲車 に乗ったつもりで? 象 に乗ったつもりで? いや、俺は蛇 やけど。ほな、蛇 に乗ったつもりで? あれ……それやと何や、意味違ってけえへん?」
亨 は困 った顔やった。
「アホか。そんなん何でもええねん。竜太郎 の部屋行こか」
真面目 に代案 を考えている亨 が可笑 しくなって、俺は今度は本当に笑った。
亨 はちょっと切 なそうに、俺を見て、愛 しそうな顔をした。
それこそ俺の好きな顔で、死ぬまで見つめていたいような愛 しい顔や。
でも今はなんかつらい。目の毒 や。
なんか変なこと言うてまいそう。思い詰 めたような、切羽詰 まった話をしそう。
それで慌 てて手を引いて、俺は亨 を部屋から連れ出した。
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