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19-13 アキヒコ

「ああ、そうや、本間(ほんま)先生。絵は描けました? まだです? (たの)んであった不死鳥(ふしちょう)の絵やけども」  急に俺に話を向けて、信太(しんた)はまだ冷たい目で見てる啓太(けいた)を無視した。相手に答える気配(けはい)はなかったけども、信太(しんた)も答えを聞くつもりはないらしい。 「いいや。まだや。今日にでも()こうかと。この後どこかで画材屋探して、簡単にでもええから描くつもりや」 「そうかあ。それは楽しみや。俺ももう一回くらいは、あいつがほんまにフェニックスやったんやというのを見てから()きたい」 「まだそうと決まった(わけ)やない」  俺は事実を教えてやっただけや。お前が死ぬとは限らへん。  それともちょっと、(はげ)ましてたかもしれへん。信太(しんた)はそういう俺のことを、面白そうに(なが)めてきた。 「そうやなあ、先生。どうなんのかは、その時になってみないと分からへん。どう(ころ)ぶかは時の運。そうかもしれへん。でもなあ、蔦子(つたこ)さんはどう(ころ)ぼうが、俺を本家(ほんけ)にくれてやるつもりみたいですよ。二十年前に、登与(とよ)様に俺をくれと言われて(ことわ)ったでしょ。それが間違(まちが)いやったしな、正しいコースに(もど)さなあかんと、思ってるんやって」 「お前なんか()らん」  俺は即答(そくとう)(ことわ)っていた。  信太(しんた)は生き残るんやしな、それなら海道家(かいどうけ)を出る理由はない。  俺が死んだら、いずれ竜太郎(りゅうたろう)本家(ほんけ)家督(かとく)()ぐことになるやろうけど、その時、他のと一緒に来ればええねん。  何もそう、(あせ)ることはない。おかんは当分元気やろうし、竜太郎(りゅうたろう)はまだ中一や。まだまだ、ほんまのおかんのところに()たいやろ。 「困ったなあ、どうせえ言うねん。蔦子(つたこ)さんは俺に出ていけ言うし、先生は()らんて言うし。そしたら俺はお野良(のら)やないか。今さらそれは(まい)るんやけどなあ」  ぼやく信太(しんた)の話を受けて、水煙(すいえん)がぽつりと突然話した。  (もろ)うとけ、ジュニアと。  この(とら)は、使える式神(しきがみ)や。お前の手持ちの(こま)として、こういうのが()れば()ったで心強いやろうと、俺にすすめた。  ありえへん、それは。なんで(とら)(とおる)を同じ(おり)の中に入れといたりするねん。あっと言う間に食われるわ。  実現しない話とはいえ、よくもそんなことを俺にすすめるな。 「先生、俺も本家(ほんけ)に行きたい(わけ)ではないんや。神戸(こうべ)(しょう)に合っとう。聖地(せいち)もあるしな。それでなくても、俺はこの街が好きなんや」  (とら)渋々(しぶしぶ)、身の上話をする口調になった。俺はむすっとして、それを聞いていた。 「元は大陸の出なんです。俺は長く中国の、宮廷に仕えた(れい)や。せやけど紫禁城(しきんじょう)にはもう皇帝はおらんしな。トドメに文革(ぶんかく)(あらし)に追われ、神も仏も絶滅しかけて、俺もこんな島まで逃げてきてもうた。東海(とうかい)彼方(かなた)にかき消えるつもりが、ここは案外居心地(いごこち)が良うてな……寄り道したきり、居続(いつづ)けとうのや」  信太(しんた)(なつ)かしそうな目やった。 「なんでもありです、神戸は。このホテルの近所を、見てみりゃわかるやろ。南に生田(いくた)神社、ちょっと東へ行けばカトリック教会、西へ行ったら回教寺院(かいきょうじいん)。プロテスタントにロシア正教(せいきょう)、ヒンドゥー教にシーク教、仏教の寺もあるし、中華街には孔子様(こうしさま)やら関羽様(かんうさま)やら。()ては阪神タイガースやろ。ほんまに神様仏様、なんでもおるわ。いろんな神が、喧嘩(けんか)もせんと共存しとう。人もそれを追い立てたりせえへん。有り難いなあ、とりあえず(おが)んどこうかって、そういう気質でしょ、この国の人らは」  それがちょっと、無節操(むせっそう)やという皮肉(ひにく)な笑みで、信太(しんた)批評(ひひょう)した。  けどそれを、笑える立場にお前は()るんか。それのお陰で助かったんやで、お前は。  小さいながらも、神戸には中華街がある。そこで()かれる(こう)の煙。黄色い屋根瓦。中国語で祈る、華僑(かきょう)のお(ばあ)ちゃん。そういう人らの素朴(そぼく)信心(しんじん)が、消え去るはずやった大陸の(とら)を、この島に呼び止めた。  文革(ぶんかく)ていうのは、文化大革命のことで、社会主義化した中国全土に吹き荒れた政治的な粛正(しゅくせい)弾圧(だんあつ)運動(ムーブメント)や。  そこでは、様々な宗教や、学問や文化が、金満(ブルジョワ)的で、庶民(しょみん)の敵やとして否定された。  社会主義の創始者(そうししゃ)であるカール・マルクスが、宗教は民衆の阿片(アヘン)であると決めたからやった。つまり毒やと。民を害する悪魔(サタン)やとして、あらゆる神を絶滅しようとしたんや。  確かに昔の(ぼん)さんたちは、とても生臭(なまぐさ)かった。今でも生臭(なまぐさ)坊主(ぼうず)はおるかもしれへんけど、昔の坊主(ぼうず)生臭(なまぐさ)いのは今の()やない。  軍隊持ってて、ちょっとした王様みたいなもん。日本にも比叡山(ひえいざん)には僧兵(そうへい)がおったし、カトリックの教皇(きょうこう)かて十字軍を組織したやろ。  神威(しんい)を背景に持った、政治的、軍事的な権力集団やったんや。  ちょい昔まで、地域によっては今もって、神様たちは時に政治の道具やった。  そしてその神を(まつ)る神官たちは、神の威光(いこう)を借りて現世の権力を(にぎ)る。その力によって、あたかも悪い王様みたいに、民衆を搾取(さくしゅ)することもあったんや。  (くさ)った神なら要らへんて、それがカール・マルクスの考え方やったんやないか。  神も(くさ)れば鬼や悪魔(サタン)と、なんも変わらんのやからな。  殺さなしゃあない。破廉恥(はれんち)やけども神殺(かみごろ)しをして、(たみ)を守らなあかんのや。

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