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20-13 トオル
「コーヒー飲みたい」
「ほな、そこでコーヒー買 うて、パン買 うて、海まで行って朝飯 食おうか」
「なんで海まで行くんや」
「すぐそこやで。三ノ宮 は海からすぐやねんから。海見て、美味 いパン食うて、カフェイン補給 して、ほんでいっぱいキスしてから、東急 ハンズ行こか」
にこにこ教えると、アキちゃんは困 ったなあっていうふうに、目をしょぼしょぼさせた。
「そんなんしたいんか……?」
「したい」
逃 げ腰 のアキちゃんに、俺は断言 してやった。
したいよ。したらあかんのか。どの部分があかんねん。いっぱいキスか。ケチやなあジュニア。
「キスは無しでもええよ。どうせ嫌 なんやろ……」
エンジンかけてるアキちゃんに、俺はぼやいた。
「嫌 やないよ。恥 ずかしいだけ。ちゃんとするから」
「どうせ結界 張 ってやるんやろ。無理してそんなんせんでええよ」
拗 ねたついでに、俺は口を尖 らせて、ブチブチ言うてやった。
どうせいつものことや。俺かてもう分かってるよ。誰も公衆 の面前 の、一般人 見てるようなとこでやれなんて、言わへんよ。
「いや、するよ。お前がしたいんやったら、なんでもするよ」
カーナビ見てるアキちゃんの声が、なんか変に、思い詰 めたふうに聞こえて、俺は横目 にじっと、アキちゃんの横顔を盗 み見た。
変やで、アキちゃん。そんな甘ったるい男やなかったやんか。結婚したから、変わったんか。
そんなわけない。こいつが結婚したぐらいで、アモーレ系に生まれ変わるわけない。
「どしたん、アキちゃん……なんでそんなこと言うの」
俺は訊 いたけど、アキちゃんは答える代わりに、アクセルを踏 んだ。
車はいつもと変わらんスムーズな運転で、ヴィラ北野 を出て、急な坂 を下る北野坂 の道に入った。
アキちゃんは黙 っていたけど、俺にはずっと、分かっていたような気がするわ。
たぶん、夜のスポーツ・バーでな、アキちゃんが、今夜結婚しようかって、そんなアホみたいなことを決めた時から。
正気 やったら、決めてへんと思う。そんなこと。
そこまで思い切るだけの、発作 みたいなもんが無かったら。
アキちゃんは、あの時、結婚を決意したわけやない。死を決意したんや。
そして、もう死ぬんやったら、何が心残りか、それを考えたんやろう。
この子はなんでそんな事を、勝手に決心したんやろ。よう分からん男や。
どうやったら生き延 びられるか、それを必死で考えるのが、人の性 やし、生きとし生けるもの達の、性 やないのか。
それをなんで好きこのんで、死のうやなんて思うのか、俺には全く理解できへん。
「アキちゃん……死なんといて。なんでそんなこと思うの。アキちゃん死んだら、俺も生きてられへん。何か困 ってることあるんやったら、俺にも教えて。相談してくれよ。一緒 に、考えさせて」
静かにそう問いつめると、運転しながらアキちゃんは、難しい顔やった。
黙 っていたけど、アキちゃんが何か答える気がして、俺も黙 って、返事を待っていた。
北野 から三ノ宮 へは、実は大して遠くない。
ほんでアキちゃんは口下手 や。黙 るとなったら、石のように押し黙 る。
黙々 と運転するうち、坂 がだんだん緩 やかになって、なだらかな山麓 のゆるい傾斜地 へと入っていった。
そしたらもう、繁華街 ・三ノ宮 の景色 が見える。
これといって、景観 のない街や。三ノ宮 は。海にすごく近いんやけど、海が見えるわけやない。
ポート・タワーとかがある、いかにも神戸みたいな場所も、目と鼻の先やのに、三ノ宮 から見えるわけやない。
あれは、隣町 にあたる元町 の景観で、三ノ宮 いうたら、これといって観光っ気のない普通のビルが建ち並ぶ、地元の人らが働いたり、買い物したりするための街や。
それでも神戸らしい、さっぱりとした小綺麗 な街なんやけど、アキちゃんにはこれといって、何の印象 も与えへんかったらしい。普通の街やという目で、特に驚 きもせず見てた。
三ノ宮 駅の二階に、確かにタリーズ・コーヒーはあり、アキちゃんは駐車場 探すの面倒 くさいから、お前が行って買ってきてくれと俺に頼 んだ。
この期 に及 んで未 だに俺を、コーヒー買いにパシらせるとは。うちのジュニアも大したモンや。
パシるついでやからな、俺はアキちゃんにナビをして、もうちょっと南に車を走らせ、そごうデパートの裏にある、神戸国際会館まで連れていかせた。
そこに美味 いパン屋があるねん。ビゴの店。フランス系やで。
ビゴさんていうフランス人のおっちゃんの店やから、ビゴの店。そのまんまやろ。でも、めちゃめちゃうまいバゲット売ってる。
そこでやたらとパンやらサンドイッチを買い込んで、俺は美味 そうやったもんで、マカロンまで買 うた。なんで朝飯 からマカロン買 うてくんねんてアキちゃんに言われたけども、美味 そうやからしゃあない。
ほんまはアイスも買いたかったけど、溶けたらあかんと思って自重 したのに。
そして、その足で、海辺まで車を走らせた。メリケン波止場 まで。
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