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20-24 トオル
「お邪魔 でしたか」
それでももう、食らいついたら離 さへん、強い意志を秘 めた目で、勝呂 はアキちゃんをじっと見つめ返していた。
澄 んだ目やった。まっすぐで、フラフラせえへん。こいつは一途 で、ちょっと怖 いくらいや。いつ見ても、いっつもそうやった。
「なんで戻 ってきたんや……」
戻 ってきたら、お前を鯰 に食わせる羽目 になる。アキちゃんはそれを思って、つらかったんやろう。苦 い顔をしていた。
それが犬には、お前は邪魔 やという意味に、見えたらしい。
つまりこいつは、実はなんも知らんかった。これから何が起きるのか。
天使として、ずっと先まで知っているような、不吉 なお告 げを運んで来た割 に、勝呂 はただのパシリやったんや。
ヤハウェの僕 の僕 の、そのまた僕 の。一番下 っ端 のメッセンジャー・ボーイやった。手紙持って走ってきただけの犬で、自分が伝えた予言 の意味までは、知らされてへんかったんや。
「なんでって……そういう約束やったやろう。戻 ってきたら俺を、先輩 のところで飼 うてくれるって、そう言うてたやんか。面倒 見たるって、あの青い人も言うてた。あの人、どこいったんや、先輩 。この蛇 が食うてもうたんか?」
勝呂 は皮肉 な笑 みで言い、俺やのうてアキちゃんだけを、まっすぐ見ていた。
黙 り込 んでるアキちゃんの代わりに、俺が優しく言うたった。
「水煙 やったら、ホテルに居 るで。俺とアキちゃんは、画材の買い出しに来ただけや。これと、後 、定着液 買 うたら戻るわ。お前も一緒に来るか?」
こいつを連れて帰ろう、ヴィラ北野 に。一度は殺し合った仲 やけど、今は可愛 い弟分 やろ。
それにお前が戻ってきてくれて、俺は嬉 しい。これで信太 も秋尾 も死なんで済むわ。
アキちゃんも秋津 の当主 として、三都 の巫覡 の宗主 としての、面目 を果 たせる。
死んでくれ、アキちゃんのために。できるやろ、それくらい。心底 惚 れてんのやったら。もういっぺん死んでやるくらい、訳 もないやろ。
「定着液 か。それは気が利 かへんかった。さっきあったから、取ってくるわ。一本でええんやろ」
勝呂 瑞希 は向こうの棚 に戻るそぶりで、俺に訊 ねた。
「いや、何や知らんけど、アホほど絵描くらしい。多めに取ってきてくれ」
俺がそう命令すると、犬は意外なまでに素直 に言うことを聞いた。
そのままふらっと棚 の向こうに歩いていって、言われた通りにお遣 いをしてくるつもりらしかった。
「亨 ……」
アキちゃんが呆然 と、俺の背中に呼びかけていた。
「俺には、無理や。やっぱり、どう考えても無理やと思う。あいつに何て言って、説明するんや。生 け贄 の事を」
犬に聞かせたら鬼やと思うんやろう、俺にそう言うアキちゃんは、囁 くような小声やった。
それに俺は、聞くんやったら聞けばええよと、普通の声で答えてやった。
「俺のために死んでくれって言えばええねん。あいつがアキちゃんの式 なんやったら、きっと喜んで死ぬわ」
俺は逃げ腰のアキちゃんに、退路 は与 えへんかった。
俺が背中を押さんかったら、アキちゃんには到底 、そんな惨 いことはやってのけられへん。
自分が死ぬほうがマシやって思うやろう。可哀想 な犬が、やっと戻ってきたのに、あと三日で死ねなんて、とても言われへん。
「そんなこと……」
「でけへんか? ほんなら俺が代わりに死んどこうか」
拒 む口調で呟 くアキちゃんのほうを見ないまま、俺は試 して言うた。
俺か勝呂 か、どっちか選べ、アキちゃん。前には俺のほうを選んだ、その苦しい選択を、もう一度やればええんや。
そして今回も、アキちゃんは俺を選ぶ。自惚 れやなく、俺にはそういう実感があった。
俺がおらんと、生きていかれへんて、俺にそう囁 いたアキちゃんの言葉に、嘘 はなかった。本気で言うてた。俺はそれに、賭 けるしかない。
「可哀想 やと、思わへんのか、お前は」
そうなんやないかと、恐れてるような声で、アキちゃんは訊 いていた。
俺が勝呂 のこと、死ねばええわと思ってるんやって、アキちゃんは怖いんか?
「思うよ。可哀想 やなあ、あの犬も。せやけど信太 や秋尾 が死ぬ方が、もっと可哀想 やわ、俺にとっては。水煙 も俺と同じ意見とちゃうか。そのために、あいつが式 になるよう、引き留 めて諭 したんやろ。怖い奴 やで水煙 は。アキちゃんになんの相談もせんと、勝手にそんなことしてさ。それで助かったけど、でも、どっちがご主人様か、わからへんよな」
「あいつがご主人様なんやろう、俺の」
アキちゃんは暗く、静かな声で、それを認 めた。
どうも、そういう事らしい。俺はアキちゃんの、ご主人様で下僕 。でもそんな関係は何も、俺だけやなかったんや。
水煙 も、そうやったんや。不実 やなあ、アキちゃん。油断 も隙 もない。因業 な血筋 や。
そこへ戻ってきた犬は、言われた通りのスプレー缶 を三つ抱 えてた。
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