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21-1 アキヒコ

 歌が聞こえた。  ちょうど俺が、ガラス戸()しの中庭に、朧月(おぼろづき)のかかるヴィラ北野(きたの)のロビーを、ふらふら通りかかった時やった。  ひとりで歩いてた。(とおる)水煙(すいえん)も、勝呂(すぐろ)瑞希(みずき)も、部屋に置いてきたから。  そういや、(おぼろ)と呼んでたと、そう言うてたなあと、俺はぼんやり思い出していた。  その歌声を聞きながら、綺麗(きれい)な声やと思えて、うっとり()うような、その声の(かも)し出す、甘く(やさ)しい(わな)の中に、自分から飛び込んで食われたいような、そんな気分になりながら。  実際、その声には、ちょっとばかし呪力(じゅりょく)めいたもんが、あったんかもしれへん。  美しい声や。声だけ聞いてると、まるで湊川(みなとがわ)怜司(れいじ)は優しい神のようにも思える。大人びて静かで、気品(きひん)があって、それでいて優しい、耳心地(みみごこち)のええ声やねん。  それはまるで、うちのおかんの声みたい。声の(しつ)やら話口調(はなしくちょう)は、別に全然()てへんわ。そらそうや、おかんは女で、湊川(みなとがわ)は男やし、顔かて全然()ても()つかん。  おかんは可愛(かわい)いような顔やけど、湊川(みなとがわ)はキツかったし、怒っていると目付きも悪い。じろっと見るような(にら)む目で、その時も俺を見た。  ロビーに出来上がった、(ゆか)より一段高いだけの収録スタジオで、座り心地(ごこち)の良さそうな深い革張(かわば)りのチェアに(しず)み込み、疲れたわという顔をして、湊川(みなとがわ)(くつ)()いたままの両脚(りょうあし)を組み、でかい(つくえ)くらいある機材の上に、お行儀(ぎょうぎ)悪く足を乗せていた。  それでも何か、(ひん)良く見える(やつ)や。たぶん長くて()っすぐな足が、綺麗(きれい)やからやろ。  (とおる)行儀(ぎょうぎ)は最悪な(めん)があるけども、それをやってる見た目が綺麗(きれい)なもんやから、大して下品(げひん)に見えへんし、むしろ、いいポーズやなあみたいな所があるしな。それと同じやろ。  それに、一仕事終わった後の休憩(きゅうけい)か、湊川(みなとがわ)はホテルが出してやったらしい、シンプルやけど、いかにも趣味(しゅみ)のいいガラスのタンブラーに、()琥珀色(こはくいろ)の酒を飲んでいた。  たぶん、グラスはバカラやろう。中西(なかにし)さんの趣味(しゅみ)やんか。それで(ひん)良く、しかし行儀(ぎょうぎ)は悪く、やけ酒めいたスコッチを食らい、暢気(のんき)みたいに歌(うと)うてる湊川(みなとがわ)は、どっちかいうたら(すき)だらけで、どっちかいうたら可愛(かわい)いみたいに見えた。  収録(しゅうろく)マイクに向けて遠慮(えんりょ)無く(うと)うてる声は、どことなく(やさ)しく人を()でるようや。それが何とはなしに、おかんに()てる。ひたりと心に()()うような美声(びせい)やねん。  そんなことを思うてる、俺は完全に素面(しらふ)やった。せやけど頭クラクラやってん。むしろ、べろんべろんになるまで()いたい気持ちでいっぱいやった。  せやけど一人で飲みたない。なのに一緒に飲むような相手が、そん時はおらへんかったんや。  現れた俺を見て、湊川(みなとがわ)はじろりと(にら)み、そして、歌うのを()めた。  せっかく綺麗(きれい)(ひび)いてた声が途絶(とだ)え、ロビーで聞いていたらしい(いく)つかの耳が、がっかりしたような気配(けはい)をさせた。  俺のせいかと思え、俺は悲しく湊川(みなとがわ)の青白いほどに色白(いろじろ)の顔を見下ろした。 「なんやねん、先生。俺にまだ何か用ですか」  ()ってるせいやないやろう。俺が嫌いやからや。湊川(みなとがわ)は怖い声やった。  なんでこいつまで俺に、怖い顔するんやろう。俺がお前に何かしたか。まだ何もしてへんやないか。  これから何か、するかもしれへんけども、それはしゃあない。血筋(ちすじ)(さだ)めやねん。  俺はそういう覚悟(かくご)を決めて、一息(ひといき)吸い込み、湊川(みなとがわ)の質問に答えた。 「湊川(みなとがわ)、今夜(ひま)やったら、俺と寝えへんか」  灰皿(はいざら)にあった()いかけの煙草(たばこ)をとろうとした手つきのまま、湊川(みなとがわ)は、はぁ? ていう顔をして、非難(ひなん)がましく呆気(あっけ)にとられて、俺を見た。 「何、言ってんの? 先生、()ってんの?」 「いいや、()うてへん。でも、()っててかまへんのやったら、二、三杯飲んでからでもええか。素面(しらふ)やったら無理やと思うねん……」  つまり、そういう気にならへん。いろいろ考えてもうて。  俺にも一応、貞操観念(ていそうかんねん)というのはあるんやで。確かにちょっと、浮気者(うわきもん)かもしれへんけども、それは俺の意志とは違う。  本来俺は、お(かた)いほうやねん。あっちこっちに手出して、あれもええなあ、こっちもええなあ、みたいな、そんな遊び人とは違うんや。  誰か一人、こいつと決めた相手と、一途(いちず)に愛し合いたい。そういう主義(しゅぎ)やねん。  そのはずや。そして、実際そうや。そうやというのを今夜確かめた。  そやからな、もしも俺がこの何やよう分からん男と、一晩(ひとばん)限りの関係を持とうというんやったら、意識ないくらい()うとか、それくらいはせなあかん。理性がぶっとんで前後不覚(ぜんごふかく)になるくらい。 「どういう意味?」  なんとか手に取った煙草(たばこ)を口に持っていき、湊川(みなとがわ)は気持ち悪そうに俺を見て、綺麗(きれい)な顔をしかめていた。  そら、そうやろ。意味わからんやろ。  でもな、俺は一応(いちおう)、お前を口説(くど)いてるんや。言うたとおりの意味やねん。  今夜一晩、俺とやらへんか。そして俺の式神(しきがみ)になって、死んでくれへんか。  あと二日して、(なまず)が目を()まし、なんや腹減(はらへ)ってもうたなあ、何か無いかと俺に()うたら、これでも食うとけと差し出す()(にえ)として、お前が行ってくれへんか。

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