281 / 928
21-1 アキヒコ
歌が聞こえた。
ちょうど俺が、ガラス戸越 しの中庭に、朧月 のかかるヴィラ北野 のロビーを、ふらふら通りかかった時やった。
ひとりで歩いてた。亨 も水煙 も、勝呂 瑞希 も、部屋に置いてきたから。
そういや、朧 と呼んでたと、そう言うてたなあと、俺はぼんやり思い出していた。
その歌声を聞きながら、綺麗 な声やと思えて、うっとり酔 うような、その声の醸 し出す、甘く優 しい罠 の中に、自分から飛び込んで食われたいような、そんな気分になりながら。
実際、その声には、ちょっとばかし呪力 めいたもんが、あったんかもしれへん。
美しい声や。声だけ聞いてると、まるで湊川 怜司 は優しい神のようにも思える。大人びて静かで、気品 があって、それでいて優しい、耳心地 のええ声やねん。
それはまるで、うちのおかんの声みたい。声の質 やら話口調 は、別に全然似 てへんわ。そらそうや、おかんは女で、湊川 は男やし、顔かて全然似 ても似 つかん。
おかんは可愛 いような顔やけど、湊川 はキツかったし、怒っていると目付きも悪い。じろっと見るような睨 む目で、その時も俺を見た。
ロビーに出来上がった、床 より一段高いだけの収録スタジオで、座り心地 の良さそうな深い革張 りのチェアに沈 み込み、疲れたわという顔をして、湊川 は靴 履 いたままの両脚 を組み、でかい机 くらいある機材の上に、お行儀 悪く足を乗せていた。
それでも何か、品 良く見える奴 や。たぶん長くて真 っすぐな足が、綺麗 やからやろ。
亨 も行儀 は最悪な面 があるけども、それをやってる見た目が綺麗 なもんやから、大して下品 に見えへんし、むしろ、いいポーズやなあみたいな所があるしな。それと同じやろ。
それに、一仕事終わった後の休憩 か、湊川 はホテルが出してやったらしい、シンプルやけど、いかにも趣味 のいいガラスのタンブラーに、濃 い琥珀色 の酒を飲んでいた。
たぶん、グラスはバカラやろう。中西 さんの趣味 やんか。それで品 良く、しかし行儀 は悪く、やけ酒めいたスコッチを食らい、暢気 みたいに歌歌 うてる湊川 は、どっちかいうたら隙 だらけで、どっちかいうたら可愛 いみたいに見えた。
収録 マイクに向けて遠慮 無く歌 うてる声は、どことなく優 しく人を撫 でるようや。それが何とはなしに、おかんに似 てる。ひたりと心に寄 り添 うような美声 やねん。
そんなことを思うてる、俺は完全に素面 やった。せやけど頭クラクラやってん。むしろ、べろんべろんになるまで酔 いたい気持ちでいっぱいやった。
せやけど一人で飲みたない。なのに一緒に飲むような相手が、そん時はおらへんかったんや。
現れた俺を見て、湊川 はじろりと睨 み、そして、歌うのを止 めた。
せっかく綺麗 に響 いてた声が途絶 え、ロビーで聞いていたらしい幾 つかの耳が、がっかりしたような気配 をさせた。
俺のせいかと思え、俺は悲しく湊川 の青白いほどに色白 の顔を見下ろした。
「なんやねん、先生。俺にまだ何か用ですか」
酔 ってるせいやないやろう。俺が嫌いやからや。湊川 は怖い声やった。
なんでこいつまで俺に、怖い顔するんやろう。俺がお前に何かしたか。まだ何もしてへんやないか。
これから何か、するかもしれへんけども、それはしゃあない。血筋 の定 めやねん。
俺はそういう覚悟 を決めて、一息 吸い込み、湊川 の質問に答えた。
「湊川 、今夜暇 やったら、俺と寝えへんか」
灰皿 にあった吸 いかけの煙草 をとろうとした手つきのまま、湊川 は、はぁ? ていう顔をして、非難 がましく呆気 にとられて、俺を見た。
「何、言ってんの? 先生、酔 ってんの?」
「いいや、酔 うてへん。でも、酔 っててかまへんのやったら、二、三杯飲んでからでもええか。素面 やったら無理やと思うねん……」
つまり、そういう気にならへん。いろいろ考えてもうて。
俺にも一応、貞操観念 というのはあるんやで。確かにちょっと、浮気者 かもしれへんけども、それは俺の意志とは違う。
本来俺は、お堅 いほうやねん。あっちこっちに手出して、あれもええなあ、こっちもええなあ、みたいな、そんな遊び人とは違うんや。
誰か一人、こいつと決めた相手と、一途 に愛し合いたい。そういう主義 やねん。
そのはずや。そして、実際そうや。そうやというのを今夜確かめた。
そやからな、もしも俺がこの何やよう分からん男と、一晩 限りの関係を持とうというんやったら、意識ないくらい酔 うとか、それくらいはせなあかん。理性がぶっとんで前後不覚 になるくらい。
「どういう意味?」
なんとか手に取った煙草 を口に持っていき、湊川 は気持ち悪そうに俺を見て、綺麗 な顔をしかめていた。
そら、そうやろ。意味わからんやろ。
でもな、俺は一応 、お前を口説 いてるんや。言うたとおりの意味やねん。
今夜一晩、俺とやらへんか。そして俺の式神 になって、死んでくれへんか。
あと二日して、鯰 が目を醒 まし、なんや腹減 ってもうたなあ、何か無いかと俺に問 うたら、これでも食うとけと差し出す生 け贄 として、お前が行ってくれへんか。
ともだちにシェアしよう!