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21-4 アキヒコ

 湊川(みなとがわ)はだるそうに椅子(いす)から立って、チカチカ光る小さなライトが(いく)つも(とも)った操作盤(そうさばん)の、電源らしきものを、ぷちぷち切った。 「しゃあないなあ、もう……とりあえず飲むか。俺の部屋でいいですか」  難しい顔をして、湊川(みなとがわ)は自分が(ゆる)せんというふうに俺に()いた。  ぽかんとして立っている俺を(なが)め、湊川(みなとがわ)は月明かりの()らす白い顔で、ふうっと重いため息ついてた。 「なあ。先生。信太(しんた)代打(だいだ)やろ。話くらい聞くわ。それに俺は、その顔には弱いんや」  半分ほど残ってたグラスから、残りを一気にあおって、湊川(みなとがわ)はグラスをそこに残していくようやった。(ねむ)そうに目頭(めがしら)を押さえ、そのまま壇上(だんじょう)から降りてきた。 「先生はほんまに、暁彦(あきひこ)様にそっくりやなあ。まるで本人みたい。それで絵まで()くなんて、ようできた息子やで。クローン人間や」  苦笑して言い、湊川(みなとがわ)は俺を差し(まね)いた。  まさか手を(にぎ)るわけでなし。(かた)()くのも変やし。一応はモノにしようという意気(いき)で来たはずの相手にとっとと先を歩かれて、俺はやむなくそれに付いていくだけやった。  夜の静かな廊下(ろうか)には、大きな(まど)から差し込んでくる月明かりが、煌々(こうこう)と明るかった。  (おく)れてとぼとぼついてくる俺を、湊川(みなとがわ)はちらりと不思議(ふしぎ)そうに()り返って見て、頭の先から爪先(つまさき)まで、じいっと()めるように(なが)めた。 「先生、なんで裸足(はだし)なんや」  言われて俺は、初めてそれに気がついた。  超絶(ちょうぜつ)かっこ悪い。俺は部屋からロビーまで、ずっと裸足(はだし)で歩いて来ていたらしい。  ヴィラ北野(きたの)廊下(ろうか)やロビーには、だいたい綺麗(きれい)絨毯(じゅうたん)()いてあるし、それで足が痛いということはなかった。  でも、気がついてもよさそうなもんやった。確かに部屋では裸足(はだし)でうろうろしてるけど、(くつ)()くのも忘れてもうて、そのままヨロヨロ出てきたなんて、俺はどんだけ(まい)ってるんや。  まるで必死で逃げてきたみたいやないか。  まあ、なんというか。実際そうやったんや。俺は必死で逃げてきた。  何から、って。それは、(とおる)からや。水煙(すいえん)から。勝呂(すぐろ)瑞希(みずき)から。  あるいは自分を(しば)る、秋津(あきつ)当主(とうしゅ)やという宿命(しゅくめい)からや。  俺は、(いや)やった。俺を好きやという神が、三人も()る。  正式には三柱(さんはしら)と数えるらしいけど。神さんて、そういう単位らしいで。(はしら)やねん。なんで(はしら)なんやろ。まあでも見た目には三人や。  そいつらが(そろ)いも(そろ)って、俺を心底(しんそこ)愛してるという目で見てる。  俺はそれを、三人とも好き。もちろん(とおる)が一番やけど、でもそれとは別の次元(じげん)で、俺は水煙(すいえん)も愛してる。たぶん勝呂(すぐろ)もや。  いや、もう、あいつのことを、勝呂(すぐろ)と呼ぶのは止そう。  あれは俺の式神(しきがみ)で、俺はあいつを瑞希(みずき)と呼んでやるべきや。  俺のものにしてくれって、あいつはそういう目で見てる。俺はせめて、その目には答えてやらんとあかん。  でもな、つらいねん。俺には(とおる)()るんやんか。俺は(とおる)の見ている前では、瑞希(みずき)お前は可愛いなあって、言うてやられへん。  (とおる)もつらいやろうし、ほんま言うたら俺もつらいんや。  俺は(とおる)を傷つけている。そう思うと、俺も痛い。ものすごく、胸が痛いんや。 「逃げてきてん、部屋から。怖くなって。それで(くつ)はくの忘れてもうた」  俺は立ち止まって待っている、窓からの月明かりの中に立つ男に、もう格好(かっこう)(かま)う気もなくて、素直(すなお)に本当のことを話した。  そうして、どことなく呆然(ぼうぜん)としたまま(だま)り込む俺を、湊川(みなとがわ)(あわ)くしかめたような顔をして、じいっと見つめていた。 「そうなん。怖いって、何が。水煙(すいえん)か。そうなんやろ、先生」  (あわ)苦笑(くしょう)を表情に混じらせて、湊川(みなとがわ)意地悪(いけず)そうに()いてきた。  水煙(すいえん)か。そうなんやろか。俺は怖い、三人が三人とも。 「しょうがない。血筋(ちすじ)(さだ)めや、アキちゃん」  いかにも京都弁の、まるで水煙(すいえん)みたいな口調を作り、湊川(みなとがわ)は俺に言った。  (うす)い笑いを浮かべたまま、どこかちょっと、俺を(あわ)れむように。  水煙(すいえん)がそう言うのを、湊川(みなとがわ)はほんまに聞いたことがあるんやないかと思った。一瞬、俺は、目の前にいるのが湊川(みなとがわ)怜司(れいじ)という別の神やのうて、水煙(すいえん)()けてる別の姿なんやないかと思え、背筋(せすじ)がぞっとしていた。  (のが)れられへん、俺は。どこまで逃げても秋津(あきつ)跡取(あとと)りや。  水煙(すいえん)は俺を、逃がさへんやろう。たった一人残った、秋津(あきつ)直系(ちょっけい)の血を引く子やし、それはあいつにとって、さんざん煮詰(につ)めた()()にできた、大事な結晶(けっしょう)のようなもんに見えるらしい。  あいつは俺を、高く買っている。俺をもう自分にとって最後の(げき)と、思い定めているようや。  俺が死んだら自分も死ぬと、思っているような目や。  (とおる)が俺をそうかき口説(くど)いた時と同じ目をして、いつも俺を見ている。  俺はそれにずっと、気がつかへんかった。  水煙(すいえん)太刀(たち)やったし、人型(ひとがた)になった時でも異形(いぎょう)の神やった。つるりと黒いガラス玉みたいな目で、そこには感情があるのか無いのか、ぱっと見には分からへん。  水煙(すいえん)にも心があると、頭では理解していても、目の前にある顔が、不思議(ふしぎ)な美しい作り物のような異形(いぎょう)の無表情でいると、誤解(ごかい)してまう。  水煙(すいえん)は大して何も感じてへんわ。俺が好きやは、ちょっとだけ。  (とおる)が俺を、(せつ)なそうに見る時みたいに、苦しい心の(ふる)えのようなモンは、水煙(すいえん)にはないんや。  だって水煙(すいえん)は神なんやし、人間みたいな心はないやろうって……俺は自分に都合(つごう)よく、そう誤解(ごかい)してきた。

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