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21-5 アキヒコ
でもな、もう、そういう逃げ場はないわ。
後で詳 しく話すけど、俺は水煙 の姿を、もっと人間みたいに作り替 えたんや。
そんなん、したらあかんかった。
水煙 は、俺が描いてやった絵とそっくり同じ、人間みたいな顔をして、アキちゃんと、俺のことを呼んだ。そして、俺のことが好きでたまらん。そんな俺が、自分ではない他の誰かと抱き合 うているのに、いつも心底 、傷 ついているという、そんな堪 える顔をした。
そんな顔と向き合 うて、俺は気が狂 いそうやと思った。
水煙、俺はお前が好きや。お前を愛してる。お前と抱き合いたい。
でもそれは、亨 の次でええか、俺はあいつが一番好きやねん。今日も明日も抱き合って寝たい。
そやからお前の順番は、いったいいつ巡 ってくるんやろ。そう思う自分の心が、人の心と思われへん。鬼や。鬼そのもの。
でも俺は、一人しかおらへんねん。三人やない。三つに分けて、亨 と水煙 と瑞希 と、それぞれに一個ずつやるわけにいかへん。
ほな、しゃあないから三人といっぺんに寝ようかって、そんなこと、俺にはとてもやないけど耐 えられへんのや。
弱い子やって?
違 うやん。俺は誠実 やねん。マトモなんや。
ここ笑うとこちゃうで。真面目に言うてんのや。
この時も俺はほんまに、死にそうやったんやから。ほんまに思い詰 めてた。
だって夜になって、部屋に三人いてるんや。
瑞希 は俺と寝たいと言うた。ただ寝るんやないで。抱いてくれっていう話やで。
亨 はそれに、耐 え難 いという目をした。
「行こうか、先生。そういう時、暁彦 様も俺んとこに来た。家から逃げたい時。有 り難 い水煙 様から、逃 げ隠 れしたくなった時にはな」
にやりとして戻り、湊川 はだらりと垂 れていた俺の手を、やんわり握 ってきた。
温かい手やった。でもどこか冷たいようでもある。異界の神たちの、燃 えるような凍 るような肌 の感触 やった。
それはきっと、俺の心の顕 れやろう。触 れられて、燃 え上がるような気がするし、それと同時に、凍 り付くほど恐ろしい。
畏 れを感じる。俺は人ではないものと、愛し合おうとしてる。それは人の身で踏 み込 むには、険 しい道や。
一目見て、ぼうっとするような美しい顔を、いつも見慣 れたもののように相手にしていくのは、普通やない。
でもそれに、耐 えなあかん。魅入 られへんように。
使うのは俺のほう。自分がご主人様やって、そんな意識をしっかり保 ってなあかん。
魅入 られたらつらい。あれも愛 しい、これも心底 死ぬほど愛 しいやと、命がいくつあっても足りひんようになる。
「行こう」
ちょっと可愛 いような囁 く声で誘 い、湊川 は俺の手を引いた。それに連れられ、俺はおとなしく付いていった。
振 り返りもせず、後ろ手に俺の手を引っ張って、湊川 はすたすたと、華麗 なストロークで廊下 を行った。
まるでその絵は芸術のように、ただ歩いてるだけやのに、痺 れるような美しさやった。
まさに理想の身のこなし。すらりと綺麗 な体やし、手足も長くて細い。かといって女みたいに華奢 なわけではない。それこそ古代の神の彫像 のようや。
男なんやけど、それでも何か、抱きつきたいみたいな、完璧 に均整 のとれた体やった。
おとんもこれに、抱きついたんか。抱きつくほど好きやったんか。俺はぼんやりそれを思った。
抱きつきたいような綺麗 な背中 を、じっと見て歩かされながら。
湊川 の部屋は、一階の奥 やった。扉 を開くと、俺がもらった部屋みたいに、超豪華 で広々としたインペリアル・スイートとはいかなかったけども、狭 いという感じはしない、こぢんまりと落ち着いた部屋で、そこにもダブルベッドがあった。
浴室とソファセット。気の張らない、ちょっと休憩 みたいなノリで泊 まるには、理想的な広さと狭 さ。ほどほどの豪華 さ。これも中西さんの計算なんやろうけど、あの人ほんまに趣味 がええんやわ。
俺はほっと、くつろいだ息をついた。ここで眠りたいって、そんな気がして。
「先生、なに飲む。俺はスコッチ派やけど、なんでもあるよ。酒が好きやねん。ホテルの人に頼 んで、ずらっと酒瓶 揃 えてもらった」
面白そうにそう話し、指さす白い手の先には、窓辺 のカウンターに並んだ酒の瓶 や伏せたグラスが、月明かりにキラキラして見えた。
綺麗 やなあと、俺はそれにもなぜか、静かに感動していた。まるで、一流のバーみたいやった。
小さいけど、そこで飲んだら日々の疲 れも悩 みも、ぜんぶアルコールに溶 ける。
「スコッチ飲む?」
黙 っている憂鬱 そうな俺に、湊川 は笑って聞いた。それは質問というより、付き合って飲めという命令みたいに聞こえた。
小さく頷 いて、俺は座れと促 されるまま、窓辺 にあったソファに座った。
ちょっとへたり込むみたいで、俺は情 けないなと思ったけども、でも、ほっとした。
窓 から見える中庭の朧月 も、今はまあ休めと、優しく許してくれているようで。
カウンターで無造作 に注 いだ琥珀色 の酒を、湊川 は俺に差し出した。
それもロビーで見たのと同じ、シンプルなバカラのタンブラーやった。
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