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21-6 アキヒコ
にっこり笑うと、湊川 の冷たいような美貌 も、まるで鋭 い月みたいで、優 しいように見えた。
俺は黙 って酒をもらい、それを一口飲んだ。喉 が灼 けるような、それでも深く熟 した円 やかな味がした。
スコッチって、普段飲まへんけど、こんな美味 い酒やったっけ。
俺にグラスを渡 すと、湊川 は手でも洗うんか、浴室のほうに消えた。
そこには白い洗面台がある。さっき、細く開いた浴室のある小部屋のドアごしに見えた。
そこで水を使っている音がして、また戻ってきた時に、湊川 は手に何かを持っていた。白い。絞 ってあるタオルやった。
「足出し、先生。汚 れてるやん」
こともなげにそう言い、湊川 は床 についた膝 の上に俺の足を取り、拭 いてくれた。熱い湯で絞 ったタオルで。
気持ちよかった。ただそれだけの事なんやけど。俺はめちゃくちゃ絆 された。
足は弱いねんていう、亨 の性癖 が、その時俺はちょっと理解できた。
普通、足に触 るやつはいいひん。他人の足なんか触 らへんやろ。そういうとこに触 るのは、特別な関係の相手だけやねん。足マッサージ屋さんでもなければな。
湊川 怜司 はもちろん、足マッサージ屋さんではない。ラジオのDJや。
それにちょっとお高いような美貌 で、つんけんしてるし、他人の足拭 いてやるようなキャラやと思ってへんかった。
そんな奴が、にこにこ愛想 よく俺の足を両方とも、丁寧 に拭 いてくれるのを眺 め、俺はその出来事 と感触 に、泣きそうやった。
そんなこと、しいひんでええやん。お前は俺の何やねん。
赤の他人やし、それにお前も一応、神さんなんやろ。ただの人間の小僧 の足なんか拭 いてやって、嫌 やないんか。
「帰り、どうすんの。先生、足のサイズ何センチ? 俺の靴 貸 してやろか」
本気で世話 焼いてるような口調で、それでも素 っ気 のう訊 いて、湊川 はまるで俺の友達みたいやった。そうでなければ深い仲 の、何年も付き合 うてる相手みたい。
俺はこいつと、初めてや。ほぼ初対面 も同然 やった。
そやのに、月明かりでさえ眩 しいみたいに、暗い部屋の中で俺を見上げる湊川 の目は、まるで懐 かしい相手を見ているようやった。
信太 がこいつのことを、暁彦 様に惚 れている、自分には惚 れてへんて言うて、ある一線を越 えて深い仲 にはならへんかったというのも、納得 がいくと、俺はその時思った。
なんか腹立つ。妬 けるというか。
それは俺がいつも、心の中で自分のおとんと張 り合 うてて、俺のことをジュニアと呼ぶ水煙 にイライラ来ていたように、湊川 が俺を見る目にも、まるでおとんの身代わりみたいで嫌 やって、僻 んでもうてたからかもしれへん。
俺を見てくれ。誰かの代用 やのうて。
二番や代打 では嫌 なのや。それが人の心の、本音 のところやろ。
人ではない虎 でもそうやったんや。神でもそうや。
湊川 は信太 のことが、ほんまに好きやったんかもしれへんけど、でもまだ心の中のどこか特別なところに、俺のおとんを棲 まわせていた。奴 の知ってる暁彦 様を。
それでも虎 が、お前が好きやと本気でかかれば、湊川 はその部屋に、鍵 をかけたんかもしれへん。もう暁彦 様が、ふらふら出歩かんように。虎 が好きやって夢中になって溺 れるような心になれるように。
でもその鍵 のかかった部屋の中にいる、過去の想 い出の形見 のようなもんは、殺されるわけではない。そういうもんなんやないか。
俺も今は亨 、亨 で頭がいっぱいやけど、それでも亜里砂 のことを完全に失念 したわけやない。
亜里砂 やないわ。トミ子か。いや、もう聖 スザンナやったな。
まったくあいつは、何やねん、ころころ名前変えるのやめろ。何て呼んでええか混乱するやんか。
亜里砂 やったんや、俺があいつに惚 れていたころ、あの女は亜里砂 という名前やった。
そのころの自分が彼女を好きやった気持ちは、たぶん今も心の中のどっかに仕舞 い込 んである。
そういうものやねん、過去の恋愛というのは。だって、好きやった気持ちに罪 があるわけやないやろ。それを殺してもうたら、相手に失礼やないかと、俺はそういう気がするんや。
確かに過去形の愛や。それでも愛は愛やろ。殺さなあかんような、悪いもんではないわ。
そんな封印 された小部屋が、心にいっぱいある奴 も居 るんかもしれへん。
湊川 はそういう手合 いやったけど、暁彦 様の居 る部屋には、まだ鍵 をかけるかどうか、腹が決まってないようなところがあったわ。
それの代わりに夢中 になれる相手が、居 るような、居 らんようなで、きっと寂 しかったんやろ。
だって信太 にふられたし。鳥さんにもふられたしな。
寂 しいなあ、って、誰にでも惚 れる。皆に本気。誰でもええのや。そういう感じのする奴 やねん。
きっと信太 と出会う前も、ずっとそうやったんやろ。基本ずっと、そういう奴 や。
冷たく人を拒 むようでいて、どこか人恋 しそうな。
誰かに夢中 のようでいて、いつも一歩引いたところから傍観 してる。
どっちつかずで優 しく冷たい、朧 なる者や。それがメディアというもんですやろと居直 ったような、スレてんのか奥手 なんか、はっきりしいひんような顔してな。
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